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身の程を知る

 「note毎日投稿はどう? 何か心境に変化はあった?」

 昨日、高校時代の友人から聞かれた。私はnoteに毎日エッセイを投稿している。エッセイとは日常に目を向ける作業だ。何もない毎日から、何かを抽出する苦役だ。私は彼に、
 「いいねがもらえると嬉しいし、いいねがもらえないと悲しい」とだけ述べた。浅はかな感想である。実際noteに投稿すると、いいねが多くつく文章もあれば、全くつかない文章もある。そこにクオリティの差があるとは私は思えない。そもそも、無職である私の毎日に質的な変化がないのだから、そんな生活に目を向けた文章に質的な差が生じるはずがない。私の毎日は、ひどく単調で、ひどく退屈だ。しかし、事実として明確にいいね数に差がある。そして、いいね数は伸びども、フォロワーは全く増えない。難儀なものだ。

 幼少から私は本を読んで生活してきた。一人っ子であった私の会話相手は純文学であり、高校時代、ほとんど孤独であった私の暇つぶしの道具は、『三島由紀夫全集』だった。それ故私という人間の構成要素は文章であり、私の文体は多くの作家によって形作られた。
 しかし、濫読は人を堕落させる。私は多くの書物によって人間性を拗らせ、そして自分の人生を前向きに生きる術を失った。社会性と時間をすり減らして、書物を頭の中に入れたのである。

 その結果がこの生活だ。その結果がこれらのエッセイだ。要するに、私の書く文章は、私の人生の総決算と言える。

 それ故に、「いいねがもらえると嬉しいし、いいねがもらえないと悲しい」

 最後に昨日ははぐらかしてしまった友人の質問に答える。心境の変化についてだ。
 「私は以前より前向きに人生を送ることはできない、私の文章はどうやら優れているわけではないらしいから」

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