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鈴木ユキオの思考 「ソロとカンパニー」

ソロとカンパニーの違いについて

最近の作品ではソロもカンパニーも基本的には同じ方法をとっているのだけれど、目的が少し違うのかなと思うので、少しこれについて考えてみたいと思います。

基本的にはソロ(ここでは自分自身が踊るソロ作品をいいます)で試みようとしている、その時々の新しいやり方であったり、方法、或いはテーマによって身体に浮かび上がってくるものを、グループ作品としてどうやるのかということを試しています。人に振り付けることでよりクリアになるものもあるし、何より自分より踊れるダンサーが、素晴らしい身体で私の踊りを体現してくれる喜びもあります。人数が増えることの難しさと同時に、重層的な構造になり、よりダイナミックになる面白さも出てきます。

「人間ってもっと複雑だよね」という気持ちとのせめぎ合い


それは、作品を客観的に見れるということでもあり、演出という部分でとても深く自分の世界を追求でき、振付もより正確に本質を求めることができる良さがあると思います。
翻ってソロにおいては、もう少し振付に差し挟まるノイズ、複雑さ、即興性の部分に自由度がある面白さが入ってきます。それが「本人がその場で踊ること」の意味なのかなと思います。その分、振付の正確さや再現性の曖昧さが、甘さと取られる危険性もあるとは思います。その辺りはいつも微妙なライン、バランスであり、観客の好みも入ってくるでしょう。そして、人に振付をする方がシンプルになる、なってしまうが故に、むしろ伝わりやすいということが起こったりもします。私の踊りは細かいニュアンスがとても複雑に絡み合っているので、それを全てダンサーに求めるのではなく、ある部分はカットしたりすることでむしろよい効果が現れるという振付家としては悩ましいことが起きてしまうのです。本来はこれくらいシンプルに提示するべきなんだろうなともよく思います。しかし、一方で「人間ってもっと複雑だよね」という気持ちとのせめぎ合いもあります。

こちら側と向こう側をぎりぎり挟んで存在する「ソロ」と「カンパニー」


グループ作品に関しては、長く付き合ってくれているダンサーは、私がやっている複雑なことをかなり理解して踊ることが可能なので、そのメンバーがコアな部分で作品をコントロールしながら進行してもらいます。私の作品はあまり音楽に合わせて踊るとか、曲を踊るのではないので、ダンサーが時間をコントロールしながら動きが紡がれていきます。しかし、全てのダンサーがこれをできるわけではないのです。10年以上一緒に実験をしながら独自の踊りを作り上げてきているからこその信頼があるのです。もちろん今は理論的にも技術的にも、それをある意味あっさり伝えることができますし、誰でもできるようにしてあるのですが、誰でもできて誰でもできないのが身体なんですよね。

もう一つ、ソロとカンパニーの違いが決定的にあるのですが、それはグループ作品の場合、流れにぎりぎり乗って踊っているということです。私は流れに乗らないように指示しているのですが、人数が多くなると必然的に切断していても誰かしらが動くことで流れができていたり、ソロの「圧倒」とは違う「調和」の方向の良さに向かうチカラが生まれます。乗らないように指示を出し続けて、ぎりぎり乗る感じの作品になります。そこのラインは多くの人にとって見やすさに繋がるラインですね。多くのダンスが曲に乗って踊るのも、ダンサーもお客さんも心地よさを感じ、そのダンスに乗ることができるから。それに反して、ソロにおいては、乗りそうで乗らないことをやり続けます。他に踊っているダンサーはいないのですから、私がリズムから降りると、流れが止まってしまいます。乗らないようにしながらぎりぎり乗るのがグループ作品で、乗りそうでいながらぎりぎり乗らないのがソロなのです。そこに心地悪さを感じる方もいると思うし、「孤絶する身体」などとも言われたり、「ミラーニューロンを禁じる動き方」と言われることもあるのですが、それをわざとやっているのですね。そして乗るか乗らないかのラインの向こう側とこちら側をぎりぎり挟んでいるような感覚なのですが、そこがソロとカンパニーでやっていることの違いなのですね、そしてそこを楽しんでもらえるといいなと私は思ってやっています。もちろん今後の作品でも同じようにやるかはわかりませんが。

そして、不思議なことに、「孤絶する身体」と言われると同時に、「物語性を帯びた身体」と言われることもあります。この部分もとても重要だと考えていて、自身の身体自体に意味が帯びてくる状態であることで、それが可能になっているとも言えるのです。それは物語というのは流れを持つものなので、流れがあることにより、その流れが堰き止められたり、流れを変えたり、流れが渦を巻いていく、そのような予想のつかなさをはらむことができるのです。

「本当」を踊る


話しは戻りますが、なぜそのような踊り方をするのかというと。あまりにもリズムや心地よさ、乗りに従って踊るダンスが多いからなのも一つ理由です。それがいけないわけではないですし、主流はそちらだとは思います。曲を踊るものもとても多いですよね。私の場合は、ダンスを子供の頃から習っていないということもあり、曲を踊ることが不得手というのもあるし、そもそも「自分のリズム」で踊っているからということもあります。そしてもっとも肝心なことは、「本当のこと」を踊っているということです。本当のことが身体に現れた状態というのは、とても複雑な状態なのですね。木を見てもわかりますが、自然界に直線が無いように、私たちもとても複雑に動いています。しかしそれを記号化しているのが多くのダンスであるとするならば、その元々の複雑さを残した状態で存在し続けようとしているのです。
元々の自分の癖を手にしたまま振付しているうちに、自分に独特な間の取り方、動き方、動きの動機があることに気づき、それを理解しながら今に至るという過程があります。そして身体の外に在る音楽を踊るというより、自分の踊り自体が音楽だと考えています。独特なリズム故にミラーニューロンが起きにくいと感じる方もいるかもしれないですが、その状態をあえて技術化して、様々なやり方で引き起こすようにしているのです。

不思議なことに、この独特な身体、身体のリズムにミラーニューロン反応を起こしてくれる方も実はたくさんいるのですね。この感覚は癖になるというか、ズレの心地よさみたいなもので、「乗らない」ということに乗って楽しむことができたりもします。少し捻くれてますね、きっとそんな方が私の踊りを好きなんだろうとも思います。
でも、この説明を聞いた上で、私の踊りを見てもらえたら、また今までとは違う楽しみも生まれるかもしれませんね。そうなってくれたらとても嬉しいです。


 鈴木ユキオ 2022.8.20

「日本国憲法を上演する」photo by Hiroyasu Daido
「moments」photo by Hiroyasu Daido


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