もののけ姫 独自考察 サンを捨てたのはアシタカ説

概要
サンを捨てた人はだれかというテーマについて、
エボシ説など、いろいろあるが、僕はアシタカ(それに類する人)が捨てたという風に考えた。以下、その根拠とそう考えたときの様々な場面での解釈について示す。


根拠
1、このストーリーは複雑なので本来は2つに分けて話すことはできないが、伝わりやすいように2つの立場に分けて話す。一つは縄文的な狩猟採集民族で、もう一つは弥生以降の農耕民族である。具体的には、ジコ坊やエボシなど都の人でコメを主食として山を開いて農地にしようとする人々が農耕民族である。一方、狩猟採集民族は、蝦夷の人々とサンであり、森と調和して生き、一部をいただきながら生きていこうとする(ナウシカ的な)人々である。
サンが、生贄として石舞台の上にもろに対して差し出されたものだとするとそれは、その山に対して敬意を払う近隣の狩猟採集民族による生贄だと考えることができる。確かに、それがまさにアシタカであるということは距離的、年齢的に言えないが、同じような狩猟採集で暮らしている民族の娘が差し出されたのだと考えると、蝦夷の村でも同じような生贄が行われていたのではないかと想像できる。
ほとんど自分の妄想であるが、少し映像的な根拠を上げておく。まず、サンが身に着けている耳飾り、首飾りであるが、耳飾りに関してはヒイ様と同じもの、首飾りに関しては色違いになっている。これは似たような別の村があることを想像させ、その村の生贄に一緒に供えたのではないかと考えることができる。
また、蝦夷の村でヒイ様が、「アシタカ彦や皆に腕を見せなさい」のシーンで腕のあざを見せる絵の背景に縄文土器が写っている。もちろん縄文土器も物を入れるために使っていただろうが、この場合はおそらく祭儀的で、アニミズムに基づく自然に対してお供えするための道具としてあるのだと考えると、蝦夷の村でも生贄が行われていたとしてもおかしくない。
このように考えたとき、次に王になるはずだったアシタカは生贄を良しとする立場であり、村として生贄を出すことに加担していたといってもおかしくはない。
しかしながら、生贄の慣習があるような民族であるからこそ、自然を大事にし、サンと分かり合えるような仲になったというのは何とも皮肉なものである。

そのように考えたとき、あらためて、いろいろな場面の意味合いが変わってみることができる。

1、「黙れ小僧」のあたり
モロは石舞台に住んでいたことからもわかるように完全に人間を敵視しているわけではない。モロが敵視している人間は農耕民族であり、その象徴としてエボシを殺したいと考えている。
一方、モロはサンを人間とともに暮らしてほしいという思いも持っている。それは「私乙事主様の目になりに行きます」に対して「あの男と一緒に生きる道もあったのだがな」と言っていることからやはりサンには人間と暮らしてほしいと思っていることがわかる。
そんな中、アシタカがモロの前にあらわれ、「黙れ小僧」のくだりがある。アシタカは狩猟採集民族で森を大切にし、サンとも分かり合えることをモロは感じている。
そんな中での、アシタカのモロの言い合いはモロのサンを人間のもとに返したいというモロ自身の内面をアシタカが当たり、それに対し現実に抱えている問題をモロが言い返し反論するような方になっている。最後は具体的な答えをアシタカが出せずに終わってしまうので、現実問題として、サンが人間社会に溶け込むことが難しいことが伝わってくる。

2、また、このようなことを踏まえると、サンに対してアシタカは少しの罪悪感を持っているように感じてくる。また、もののけ姫の歌でも、まことの心を知るは森の精もののけたちだけ とあるように、アシタカがサンをどのように思っているかをうたった歌でも複雑な心情を感じる。

もののけ姫の個人的に好きなところは善人が集まっても必ずしも完全にいい社会はできないことを描いているところだと思う。完全な悪人がいない一方、完全な善人もいない。エボシなどはそのわかりやすい例ではあるが、アシタカも味方によっては集団のために個人を犠牲にする人間(立場)であり、アシタカ含め完全な善人など存在できないというのがこの話の最もすごいところだと思う。

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