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『だから古典は面白い』全文公開:第1章の2

『だから古典は面白い 』(幻冬舎新書)が3月26日に刊行されました。
こんな時こそ、古典の世界に救いと安らぎを求めましょう
これは、第1章の2の全文公開です。

2  イエス・キリストは、史上最強の説得者

共産主義国家は70年だが、キリスト教は2000年
聖書を読んで得られるものは、文学作品や絵画の理解だけではありません。
説得術を学ぶことができます。
イエス・キリストは、人類史上で最強の説得者です。
これほど多くの人々を、しかもこれほどの長期間にわたって説得しえた人は、他にいません。
一人の考えが社会に大きな影響を与えた例として、カール・マルクスの共産主義があります。
しかし、共産主義国家ソビエト連邦は、結局のところ、70年しかもちませんでした。
中華人民共和国も、建国から70年しか経っていません。そして、中国共産党は、「毛沢東思想」とは言っていますが、「マルクス・レーニン主義」とは言わなくなったようです。しかも、現代中国経済の実態は、毛沢東が実現しようとしたものとは正反対です。
それに比べてキリスト教は、2000年の歴史を持っています。そして、その力が衰えているようにも見えません。

信じられないほどの強い説得力
イエスの説教は、その影響が広範で、永続しただけではありません。信じられないほどの強さを発揮しました。
キリスト教布教の初期段階において、おびただしい数の殉教者が生まれました。
ネロ治世下のローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は、苛烈なものでした。しかし、キリスト教はそれによって弱まったのではなく、かえって強まりました。
そして、それから300余年後にはローマ帝国の国教となり、ついにはヨーロッパ全土を支配する宗教となったのです。
キリスト教の影響力が頂点に達したのが、十字軍です。
十字軍は、宗教的義務感だけによって結成された軍隊であり、そのリーダーとなった王や諸侯に、領土獲得などの現世的目的はありませんでした(結果的には、パレスチナに十字軍国家を建設することになったのですが)。
数次にわたる十字軍遠征が終わったあとも、キリスト教の宣教活動は続きました。
ポルトガルが大航海に乗り出した一つの理由は、キリスト教の宣教です。「遠い異国にプレスター・ジョンという王が治めるキリスト教国が存在する」という伝説が、航海王子と言われたエンリケ(1394〜1460年)を支えたのです。
ジェズイット教会は、宣教者を遠く日本にまで派遣しました。しかも、遠藤周作の『沈黙』に描かれたような殉教となることが、あらかじめ予測できたにもかかわらず。
 
ドラッカーは50年だが、聖書は2000年
イエスの説教は、福音書に記録されています。それを読めば、なぜこれほど強い影響力を発揮できたのかを知ることができるでしょう。
福音書は、人類の歴史上、最も長く、かつ最も多くの人に読まれてきた説得法の教科書なのです 。*
説得法に関するビジネス書は、世にあまたあります。しかし、聖書を超えるものはありません。
2000年間も読まれているのですから、せいぜい50年のピーター・ドラッカーよりは、ビジネス書としてずっと有効であるに違いありません。そうしたアプローチで聖書を読み直してみれば、有用なノウハウを数多く学べるでしょう。
「年数だけで比較するのはあまりに乱暴」と思われるかもしれません。しかし、50年と2000年の差は重大です。いまから2000年後にドラッカーが読まれているとは、到底考えられないのです。2000年間読み継がれてきたということの重みを、いま一度考えるべきです。
ドラッカーを読んでいる人に対して、また、つぎからつぎへと現れるビジネス書に追い回されているビジネスパーソンの方々に対して、私は、「なぜ聖書を読まないのか? こちらのほうがずっと役に立つのに」とアドバイスしたい気持ちです。
なぜ、聖書は書店のビジネス書のコーナーに置かれていないのでしょうか? 不思議なことです。

*― ただし、キリスト教がかくも多くの信者を獲得できたのは、聖書の力だけによるのではありません。カトリック教会の布教方法(いまの言葉で言えば「ビジネスモデル」)に成功の大きな原因がありました。
そして、ローマ・カトリック教会の教義には、福音書で伝えられるイエスの説教とは異質の要素があります。これは、吉本隆明が「マチウ書試論」(『マチウ書試論・転向論』所収、講談社文芸文庫、1990年)で指摘していることです。
しかし、カトリック教会も、福音書を大いに利用していることに注意が必要です。

聖書をビジネス書として読めるのは、非キリスト教徒の特権
聖書に魂の救いを求めるのでなく、ビジネス書ないしは説得のノウハウ書と見做すのは、キリスト教徒から見れば、許しがたい冒瀆行為ということになるでしょう。
神聖な福音書を取り上げて「説得法の教科書だ」とか、「最高のビジネス書だ」などと言えるのは、私がキリスト教徒でないからです。そのため、聖書を客観的に見ることができるのです。
聖書を説得法の教科書として利用できるのは、非キリスト教徒の特権です。この特権を、最大限に活用しようではありませんか。
では、具体的にどのような意味において聖書が説得法の教科書になっているのでしょうか? それについて、以下に述べます。



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