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『良いデジタル化 悪いデジタル化』:  全文公開 はじめに

良いデジタル化 悪いデジタル化』(日本経済新聞出版)が2021年6月19日に刊行されました(日本経済新聞出版)。
これは、はじめに全文公開です。

はじめに

 新型コロナ禍の発生後、さまざまな出来事を通じて、日本におけるデジタル化の遅れが白日のもとに晒し出された。日本の生産性が国際的にみて低い水準にあることがこれまでも指摘されていたが、その基本的な原因がここにあることが明らかになった。なぜ、こうした事態になってしまったのか? それは、日本社会の基本的な構造と深い関わりがある。本書は、これらの点について、具体的な事例を見ながら検証する。コロナ対応での失敗を克服すべく、デジタル庁の新設など、さまざまな取り組みが行われようとしている。では、現状を脱して、いかなる方向を目指すべきか?基本的な目的は、プライバシーを保護しつつ、しかも高度なデジタル処理が可能となるような仕組みを作ることだ。
 これは決して簡単な課題ではない。方向付けを誤れば、「仕事の能率は上がり、生活は便利になったが、自由を奪われた」ということになりかねない(中国は、すでにそのような社会になっているのかもしれない)。そのために最も重要なのは、本人確認(ID)の仕組みとして、いかなるものを採用するかである。
 現在の仕組みは、中央集権組織が管理するものだ。マイナンバーカードによる電子署名は、それをさらに推し進めようとするものである。しかし、このような方向がよいのかどうかは、社会の基本構造に関わる重大問題だ。
 プライバシーの問題は、プラットフォーム企業による個人情報の収集と、それを用いるプロファイリングをどこまで許容するかという問題とも、深く関わっている。
 本書は、中央集権的な仕組みではなく、いま開発されつつある分散型IDの方向が望ましいことを主張する。

各章の概要

 第1章から第4章では、日本のデジタル化の遅れを概観し、その原因を分析する。
 第1章では、日本政府のコロナ対策において、デジタル化の信じられないほどの遅れが暴露されたことを述べる。
 日本政府は、テレビ会議が満足にできなかった。また、コロナ感染状況の情報収集にFAX(ファクス)が使われていた。定額給付金の申請がマイナンバーカードでできるとされたが、実際には現場が大混乱に陥った。
 こうなってしまった大きな原因は、デジタル化が省庁ごとにバラバラに進められてきたことにある。官庁がテレビ会議をできないのは、別々の通信システムになっているからだ。マイナンバーカードやコロナ情報収集システムがうまく機能しないのは、自治体のシステムとつながらないからだ。また、発注者である担当省庁が、デジタル化の方向付けに関して主導権を発揮できないことも大きな問題だ。
 第2章でみるように、デジタル化が進んでいないのは、官庁だけのことではない。民間企業、政治家、日常生活も同じような状態だ。在宅勤務(テレワーク)は、2020年の春にはいったん進展したものの、夏以降には元に戻る動きも見られた。こうなるのは、日本の組織における仕事の進め方に基本的な原因がある。
 第3章では、「脱ハンコ」について述べる。日本では、仕事の多くが紙を用いて行われており、本人確認の手段として印鑑が用いられている。行政手続きのデジタル化は、20年前に政府が約束していたことだが、いまだに実現できていない。印鑑に代わるものとしての電子署名は、20年前から使えるようになっているが、使い勝手が悪いために普及していない。
 第4章では、以上でみた日本社会におけるデジタル化の遅れと生産性の関係、そしてそれがもたらす問題について述べる。デジタル化の遅れは日本の生産性が低い大きな原因だ。現在のような状況では、生産性が上がるはずはない。それがはっきりと示された。成長のための最も重要な基盤が失われているわけであり、非常に深刻な問題だ。
 こうなる大きな原因として、情報システムの構築や運営が、組織と結びついたIT(情報通信)ベンダーに丸投げされていることが挙げられる。この関係は固定的で、いったんシステムを作ると、動かせない。受注側のIT企業としては、新しい技術の動向をフォローするのでなく、固定的な顧客を逃がさないことのほうが重要だ。日本がいまだにレガシーのコンピューターシステムから抜け出せない原因も、発注者と受注者の関係の固定化にある。また、組織のトップがITを理解していないことも、大きな問題だ。
 第5章から第8章では、将来に向かう方向付けについて述べる。
 第5章のテーマは、本人確認の仕組みとしていかなるものが望ましいかだ。手続きのデジタル化を進めるためには、本人確認手段をデジタル化することが必要になる。政府の基本的な方針はマイナンバーカードの利用を広げていくことだが、ここにはいくつかの問題がある。
 まず、マイナンバーカードは現状ではほとんど使われていない。利用者や利用対象を増やすのは容易なことではない。より根本的な問題は、マイナンバーカードは中央集権的な仕組みであるため、国民管理の手段として使われる危険があることだ。こうした方向ではなく、ブロックチェーンを用いた分散型IDの方向を目指すべきだ。
 第6章では、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)などのプラットフォーム企業が巨大化したためにもたらされるさまざまな問題について述べる。これらの企業は、いまやわれわれの仕事と生活の奥深くまで入り込んでおり、コロナ禍においても業績を伸ばしている。そして、コロナ後のニューノーマルの世界をリードしていくだろう。
 ただし、あまりに巨大化したプラットフォーム企業は、プライバシーとの関係で大きな問題をもたらす。クッキーの制限、個人情報保護法との関係などが重要な論点だ。
 第7章ではアメリカと中国のIT政策の動向を見る。2020年のアントの上場中止事件は、世界にショックを与えた。これは、中国共産党が民間IT企業の成長を抑える方向に政策転換した結果ではないかと捉えられている。デジタル人民元発行の真の狙いも、民間フィンテックの抑圧にあるとの解釈が可能だ。
 一方、アメリカでは、バイデン政権の成立に伴い、トランプ政権時代のITに対する敵対的な政策が変化する可能性がある。以上のような変化は、今後の米中デジタル戦争の行方に重大な影響を与えるだろう。
 第8章では、目指すべきデジタル化の方向と、それを実現するための手段について述べる。クラウドとブロックチェーンの導入が必要であることを指摘する。また、日本と対照的な例として、ブロックチェーンを用いた電子国家化を実現したエストニアを紹介する。
 デジタル化は、社会の基本的な仕組みの改革を伴うため、簡単に実現できるものではない。国民が政府を信頼することなくしては決して実現できない課題だ。
2021年5月
野口悠紀雄



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