『だから古典は面白い』全文公開:第1章の5
『だから古典は面白い 』(幻冬舎新書)が3月26日に刊行されました。
こんな時こそ、古典の世界に救いと安らぎを求めましょう。
これは、第1章の5の全文公開です。
5 「一粒の麦」:麦が死ねば芽は出ないはずだが......
「すり替え詐欺」のようなもの(その2)
「比喩によってすり替えた」というケースは、他にもあります。
例えば、「一粒の麦」の譬えです。これは、アンドレ・ジッドの小説のタイトルにもなっている有名な譬えです。
イエスは言います。
誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一にて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 (ヨハネ伝、第12章、25)
ここでイエスは、麦が発芽前の状態にあることを「死なずば」と表現しています。それは正しい表現ですが、発芽後の状態を、「死なば」と表現しているのです。「元の麦粒の形態ではなくなった」という意味で、「死んだ」と言っているのでしょう。
しかし、生物学的に言えば、これは明らかに誤りです。
麦が死んでしまえば、芽は出ないはずです。麦から芽が出て実がなるのは、麦が死ななかったからです。
弟子たちも、いかに「理解力が低い」といったところで、そのくらいのことは知っているでしょう。
発芽した麦は、生物学的に言えば死んでいない。そのことは弟子たちも知っています。
しかし他方において、何かを成し遂げるために自己犠牲が必要になる場合があることも、薄々とは感じています。
イエスは、弟子たちの後者の心理状態を利用して、生きている麦を死んだ麦にすり替えてしまったのです(この場合の「すり替え」は、「種蒔く人」の場合の「すり替え」とは別の種類のものです)。
つまり、自己犠牲が必要な状態を、生物学的な死に置き換えたのです。
目にもとまらぬ早業。あっという間の瞬間技で、「お見事」としか言いようがありません。
弟子たちは、イエスのイメージ操作にまんまと乗せられたことになります。
死んでいない麦が死んだ麦にすり替えられたわけですから、俗世間の言葉で言うと、弟子たちは「すり替え詐欺」に引っかかったことになります。
論理的に正しいだけでは、力強くない
しかし、それにもかかわらず、イエスの言葉の力強さには圧倒されます。
なぜなら、これは、自己犠牲を讃えているからです。
イエスはこれに続いて、つぎのように言います。
己が生命を愛する者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし。
これがイエスの言いたかったことの正確な表現であり、論理的には正しい内容になっています。
しかし、これだけを言われたとしたら、どうでしょうか?
「そうですねえ」とは感じるでしょうが、格別強い印象は受けません。ましてや、進んで自らの生命を犠牲にして永遠の生命を得ようという気持ちにはならないでしょう。
メッセージが力強くなっているのは、「一粒の麦」の譬えがその前に登場しているからなのです。
しかし、もう一度考えてみてください。本当のことを言えば、芽を出した麦は死んでいないわけで、したがって自己犠牲はしていないのです。
もし麦に意思があるとして、芽を出すことは、犠牲でしょうか?
麦は、芽を出さないままでいたいと願っているのでしょうか?
そうではなく、芽を出そうと願っているのではないのか?
そうだとすると、麦は単に願望を満たしただけではないか?
しかし、イエスの説教を聞いてこんなことを言う人はいないでしょう。
これこそが、聖書における比喩の本質なのです。比喩によって別の世界に引きずり込まれるために、説教が力強いものになり、折伏されてしまうのです。
この教えを聞いたとき、われわれは自己犠牲の尊さに感動するだけではありません。
ひどい状況に陥り、痛めつけられて、ダメになってしまいそうなときがあります。そのときに、この教えを聞けば、「これまでのような生活を続けていたのではいけない。ここで死んだような気持ちになろう。そして再出発すれば、やがてもっと多くの実を結ぶことができるだろう」と力づけられることもあります。
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