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『だから古典は面白い』全文公開:第1章の6

『だから古典は面白い 』(幻冬舎新書)が3月26日に刊行されました。
こんな時こそ、古典の世界に救いと安らぎを求めましょう。
これは、第1章の6の全文公開です。

6 「野の百合を思へ」のトリック

明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神は斯く裝ひ給へば

百合を思ひ見よ、紡がず、織らざるなり。然れど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに其の服裝この花の一つにも及かざりき。今日ありて、明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神は斯く裝ひ給へば、況て汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
(ルカ伝、第12章、27―28)

これも、誠に感動的な場面です。聖書の中で、私が最も素晴らしいと思う箇所です。
このとき、イエスは弟子たちとともに、暖かい春の日差しの下、野で車座を作って座っていたのでしょう。目をつぶると、その状況がいきいきと想像されます。私もその一員になって、イエスの教えに耳を傾けている気持ちになります。
側には、野の百合が咲いていました。その美しさを見て、「どんなに豪華な衣装も、この百合には敵わない」と、弟子たちの誰もが即座に納得できました。
粗末な身なりの彼らは、イエスの言葉を聞いて百合の美しさをあらためて愛で、そして、負け惜しみではなく、「自分たちはソロモンより恵まれている」と、心の底から誇らしい気持ちになったに違いありません。

どこにトリックがあるか?
ところが、この教えには、よくよく考えると、トリックが含まれているのです。説明すると、つぎの通りです。
イエスは、まず、ソロモンの所有物である「服装」と、弟子の所有物であるとみなせる「野の百合」を比較し、「ソロモンの服装より百合が優れている」と言いました(「其の服裝この花の一つにも及かざりき」)。これを「第1命題」と呼びましょう。
そしてつぎに、「況て汝らをや」と言いました。つまり、「弟子は、その所有物である百合より優れている」ということです。これを「第2命題」と呼びましょう。
この2つの命題から論理学の推移律によって導かれる結論は、「弟子は、ソロモンの服装より優れている」ということです。
しかし、弟子たち(および聖書を読む人々)が幸せに満ちた心理状態に導かれるのは、この結論のためではありません。
「われわれはソロモンより優れている(あるいは恵まれている)」と感じるからです。
しかし、その結論は、第1命題と第2命題から論理的に導くことはできません。弟子たちは、錯覚によって幸せになっただけです
このとき、弟子たちの心理では、「ソロモンと衣装は別のものであり、弟子と百合とは別のものである」という区別が薄らいでしまっています。
そして、「ソロモン・衣装組と弟子・百合組の対立」という、論理的には曖昧な区別になっていたのです。
イエスは、この認識の曖昧さを、巧みに利用しました。

論理的に正しい命題では説得力がない
ここで、やや強引ですが、「所有物の優劣は、持ち主の優劣(ないしは幸福度)を決める」という命題を認めるとしましょう。
そうすれば、確かに「弟子はソロモンより優れている(あるいは恵まれている)」という結論になります。
しかし、よく考えてください。右の強引な命題を認めるかぎり、先の結論を導くには、第1命題だけがあればよいのです。第2命題は必要ありません。
説明すれば、つぎの通りです。

まず、強引命題「所有物の優劣は、持ち主の優劣を決める」。
つぎに、第1命題「ソロモンの所有物である服装より、弟子の所有物である百合が優れ
ている」。
結論「ソロモンより弟子が優れている(あるいは恵まれている)」。

では、第1命題だけの場合と聖書を比べてみましょう。どちらが力強いでしょうか?
明らかに聖書です。
なぜでしょうか?
前記のように第1命題「野の百合はソロモンの服装より優れている」だけを示して、「だから、弟子はソロモンより恵まれている」と納得させるのは無理なのです。
そうさせようとすれば、「所有物の優劣は持ち主の優劣を決める」という命題が強引なものであることが目立ってしまいます。
聖書におけるイエスは、それを隠ぺいするために第2命題を持ち出したのです。
この章で取り上げた説法が論理的におかしいことは、これまで多くの人が気づいていたに違いありません。
しかし、それが神学上の論議の対象になったという話は、聞いたことがありません。これらのトリックは、2000年もの間、容認され続けてきたのです。
私がここで言ったことは、くだらない「屁理屈」としてしか扱われないでしょう。


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