見出し画像

深山の孤家(みやまのひとつや) いわれ

その婦人(おんな)と亭主が住むところからしばらく下り蛇の胴のような丸太を渡ると、洞窟のワレメの奥に穴があり、その岩場に玉を解いて流したような水が流れこんでいる。手にとれば羊水のように少し温かく感じるその水は生き物の傷や疲れを癒やし、若返らせる力がある。老いた体を生まれたところまで戻す。

炎熱の「海坂」を超えてきた者は水を欲する。蛭の死骸と泥にまみれた身体と喉を潤さずにはいられない。そこで婦人はその洞窟の水場へ案内することになる。
女はそこで衣を脱ぎ肉付きのいい裸体となり湯浴み(ゆあみ)をしながら旅人の躰(からだ)を包み込むように温かい手で洗い癒す。浮世はどこぞと十三夜の月に映された法悦に浸る二人を見兼ねた猿や蝙蝠(こうもり)やヒキガエルがどこからともなく現れ、婦人の背中にまとわりつき、叱られる。「お客様がいらっしゃるでないかね」
産湯に浸かり母胎に還ったかのような心地がする旅人は現世の方に戻れなくなってしまう。

洞の家屋で幼児のような亭主はへそに指を入れ弄(いじく)りながら、そのままの形、紐のように長い沢庵(たくあん)ばかり食べているが、その容姿からは想像できないほど美しい声で歌を歌う。まるであの世と喉が管(くだ)で繋がっていて、あちらの息が吹き込まれて来るかのように。

他に宿はなく婦人に都の話をせがまれるまま、旅人は幾日もたてなくなり、とうとう一生ここに留まることを約束してしまう。
旅を止めた輩はいつしか獣の姿になり果てた自分に気づく。

齢百を超えた洞の婦人(おんな)は瑞々(みずみず)しい躰を保ち、増え続ける動物達に囲まれて今も生きている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?