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1984年夏、小倉にて (続き)

その時、電車の停留所に向かう僕を自転車がさっと追い越した。
颯爽とその人は僕の視界に入ってきた。
一足先に停留所についたその自転車を降りて、真っ白な綿のTシャツの袖の奥に見える白く絹のようにしっとりとした二の腕を僕は眩(まぶ)しく見た。その女の人は時刻表を見ているようだった。
僕から見れば、その人は大人びて見えたが実際は二十歳前くらいか。ぴったりとしたジーンズを履いていたのかもしれない、太ももからふくらはぎまで脚の曲線がわかった。
僕が遅れて停留所に着くと、その人は自転車に跨(またが)り、さっと今来た道を戻ろうとしたが、すれ違いざまに僕を見て笑ったように思えた。微笑んだのではない、笑われたようだった。

顔はどうしても思い出せない。にもかかわらず、さっきの女の人が心に残っている。僕の周りにはあんなに美しい人はいなかったように思えた。
色香(いろか)なのか、さっぱりとした立ち振る舞いに大人を感じたのか。

見覚えのある急な坂道を上(のぼ)り、虚(うつろ)なまま父の実家のチャイムを鳴らした時には、もうお昼をだいぶ過ぎていた。
おもむろに伯母(おば)が玄関から出てきて僕の格好を見ながら言った。
「あんた一人で来たの?今ごろ?」
僕は「うん」と答えたが、伯母は表に出てきて扉を閉めた。
「あんた何ちゅう格好で来たの?今日はもう帰りなさい。いいからもう帰りなさい」
と言ってさっさと家に入っていった。
表に残された僕は自らの格好をかえりみた。派手だ。せめて学生服で来るべきだった。今頃ノコノコと僕は何しに来たのか?
僕は恥ずかしさでいたたまれなくなり、人目を避けるようにしてその場を後にした。

それから電車にどう乗ったのか、どう降りたのか思い出せない。
気付けば家に着いていた。何だかずいぶんと人と話をしていないような気がする。
いろんなことがあったような気がするが、何事も起こらなかった。

何も教えてくれなかった父と今だ何も学んでいない自分に憤りを感じて、冷蔵庫にあったカルピスをグラスに注ぎ一気に飲み干した。

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