教科書の紹介――事前の視点と事後の視点
この記事は、興津征雄『行政法 I 行政法総論』新世社(2023年)の情報記事です。
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以前の記事(「教科書を執筆して――サッカーのプレーと法律論の論証」)で次のように書きました。
今回は、「本書の『売り』になればいいな」と書いた第7章の導入部分をご紹介して、法の解釈適用について本書がどのようなアプローチで説明しようとしているのか、その一端をお話しします。
以下に抜粋するのは、第7章「法の解釈・適用と行政裁量」→7.2「法の解釈・適用」→7.2.1「要件・効果の構造の把握」の冒頭部分です(本書の細目次はこちら)。
【設例7-1】のベースとなった最判平23.6.7は、行政手続法14条1項本文の不利益処分の理由提示に関して有名な判例ですが、ここでは、行政手続の問題としてではなく、処分の根拠となる個別法(このケースでは建築士法)の解釈・適用の素材として示しています。建築士法10条1項における《要件→効果》の構造が単純でわかりやすいためです。
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行政法の事例問題は、多くの場合、行政処分などの行政活動が適法か違法かを論じさせる形で出題されます。上の設例でいえば、国土交通大臣がXに対して懲戒処分を行ったという前提のもとに、「この懲戒処分は適法か」という形で問われます。
このような問題を解くときに、慣れないと処理が難しいのは、行政庁は処分という形でいったん法の解釈・適用を行っているので、その適法性を論ずるために、行政庁が行った法の解釈・適用を後からたどる形で審査(チェック)することが求められることです。
学生の皆さんが行政法を学ぶ前に学ぶ多くの法律――たとえば民法や刑法――では、誰か別の人が行った法の解釈・適用を、後からたどる形でチェックすることが求められることは、ほとんどないのではないかと思います(憲法では立法者の判断をチェックすることが求められますが、そうであるがゆえに憲法の事例問題を解くにもまた民法や刑法とは異なる扱いが必要になるのだと思います)。
たとえば、一定の事実関係が示された上で、「XはYにどのような請求をすることができるか」「Xの罪責を論ぜよ」などの形で問われた場合、解答者は、自分が裁判官になったつもりで、民法や刑法の解釈・適用を一から示すのではないでしょうか。つまり、民法や刑法の世界では、自分が第一次的な法の解釈適用者です。
行政法の事例問題では、そうでないことが多いのです。すでになされた行政処分の適法性が問われる場合、第一次的な法の解釈適用者は処分を行った行政庁です。その審査を行う解答者は、第二次的な存在です。行政庁がすでに示した法の解釈適用の結果(それは多くの場合処分理由という形で示されます)をどう扱って、第二次的な立場で法の解釈適用を示せばよいのか、初学者はまずこの点に戸惑いを覚えることが多いように思います。
上の引用部分の「事前の視点と事後の視点」で述べようとしたのは、この区別です。「事前の視点」が民法や刑法と同様の第一次的な視点、「事後の視点」が行政法でよく問われる第二次的な視点ということになります。
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しかし、初学者が戸惑いを覚えるのもやむをえません。なぜなら、行政法の世界でも、第二次的な視点(事後の視点)に立って、第一次的な法の解釈適用者の判断をチェックするという作業は、応用編だからです。基礎となるのは、第一次的な視点(事前の視点)で法の解釈・適用をどのように行うかです。この点は民法や刑法と変わりません。
そこで、第一次的な視点(事前の視点)で、処分の根拠となる個別法の解釈・適用をどのように行うかを、行政庁の立場に立ってまず体験してもらおうというのが、上に掲げた【設例7-1】の趣旨であり、第7章全体の目的ということになります。
それを踏まえて、第二次的な視点(事後の視点)ですでに行われた行政処分の適法性をどのように検討していくかは、第15章「個別法の解釈と適用――実体的違法事由(その1)」を含む第2部「実践編:行政法を使う」で本格的に説明されることになります。第1部で基礎を学び、第2部でその使い方を学ぶという構成です。
このように、第一次的な法の解釈適用者の視点と、第二次的な法の解釈適用者の視点を区別した上で、まず第一次的な視点を理解するという構成は、一般的な教科書(基本書)や演習書では、見たことがありません(見落としていたらすみません、ご教示ください)。個別法の解釈・適用を丁寧に解説した本でも、多くのものは第二次的な視点(事後の視点)を中心としているか、第一次的な視点(事前の視点)と第二次的な視点(事後の視点)をはっきり区別していないように思われます。
上の引用部分にも書いたように、第一次的な視点(事前の視点)と第二次的な視点(事後の視点)は、表裏一体であり、慣れてくると意識せずとも使い分けられるようになりますので、この二つの視点を分けて説明することは、同じことを二度くりかえして説明している感もあります。多くの文献がこの二つの視点をわざわざ分けないのも、そうした理由によるのでしょう。
しかし、私は、分けたほうがわかりやすければ、たとえリダンダント(冗長)になってページ数が増えることになっても、わかるように説明することを本書では選択しました。その結果が、本文800ページ超という本書の鈍器化につながっているわけですが(もっともソフトカバーなので物理的威力はそこまでではないと思います)、それでもやはり「本書は体系書ではなく教科書である」と著者が主張したい理由はこのあたりにあるわけです。
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