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教科書を執筆して――サッカーのプレーと法律論の論証

この記事は、興津征雄『行政法 I 行政法総論』新世社(2023年)の情報記事です。教科書を書きながら考えたことなどを不定期に綴っていきます。

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続刊が出ると必ず買う漫画のひとつに、『アオアシ』(小林有吾、小学館)があります。地元の愛媛で自由気ままにサッカーをやっていた少年が、たまたま訪れていた東京のユースチームの監督に見いだされ、単身上京してさまざまな壁を乗り越えながら成長していくという、このようにまとめてしまうとよくあるスポーツ漫画なのですが、なかなか読みごたえがあり、『SLAM DUNK』(井上雄彦、集英社)を髣髴とさせるキャラが登場したりして、オールドファンにも楽しめる作品です。

この漫画のなかで監督が主人公を含むユースチームのメンバーに対してよく使うキーワードに、「言語化」があります。たとえば、試合のなかで瞬時の判断で行ったプレーを後から振り返り、どういう状況認識のもとにどういう根拠でそのプレーを選択したかを選手自身に言葉で説明させようとします。選手はフィーリングや運動能力にまかせてプレーすることも多いので、そもそも状況をよく覚えていなかったり、確たる根拠が説明できなかったりするわけですが、直感で選択したプレーに実は理論的な根拠があるとわかると、それを内面化し、次に同じ状況に遭遇したときに同じ(またはより良い)判断ができるようになるわけです。こうした一連のプロセスを監督は「言語化」と呼んでいるのだと私は理解しています。

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この漫画で監督が「言語化」という言葉を使っているのを見たとき、私はハタと膝を打ちました。「言語化」という言葉こそ、私が少し前から法学の教育や学習において重視すべきではないかと思っていた要素を「言語化」したものだったからです。法学部や法科大学院の授業で、学生と問答をしていると、学生が考慮すべき要素や結論の方向性は見えているのに、それを自分の言葉で説明できないという局面によく出くわします。たとえば次のような感じです。

教師「この事例において、この処分は適法ですか?違法ですか?」
学生「違法・・・だと・・・思います」
教師「どうしてですか」
学生「問題文によれば・・・○○という事実があるからです」
教師「○○という事実があると、どうして処分は違法になるのですか?」
学生「条文に・・・××と書いてあるからです」
教師「条文に××と書いてあると、どうして処分は違法になるのですか?」
学生「・・・」

これ以上答えが続かないと見るや、教師は、「条文に××と書いてあるということは、△△の場合には処分をすることが許されないということですね。また、○○の事実は、△△を含んでいますね。そうすると、この場合には処分をすることは許されず、処分は違法になります」などと説明します。そうすると学生は「あー!」という顔をするわけです。

たぶんこの学生は、「××という条文があって、○○という事実があると、処分をすることが許されない」ということは、直感的にはわかっていたはずです。そして、「××」と「○○」だけでは、言葉の上では論理がつながっておらず、理由づけになっていないこともわかっていたはずです。しかし、両者をつなぐ中間項である「△△」が見つからなかった(あるいは言葉で表現できなかった)。つまり、自分の思考を言語化できていなかったわけです。

もちろん、法律論の論証と、サッカーのプレーの説明とは、同じではないでしょう。しかし、直感的・感覚的にはわかるけれども、言葉で説明しようとするとうまく説明できないという場面には、法律やサッカーに限らず、さまざまな状況で遭遇します。その場合にそれを「言語化」する方法は、共通のものがあるのではないかと思います。

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中高生が読むような漫画で、高校生の主人公に対して「言語化」という言葉が特段の説明抜きで使われているのだから、この言葉が大学生や大学院生に通用しないはずはないだろうと、私は「言語化」という言葉を愛用するようになりました。教室で学生が答えに詰まると、「着眼点や方向性は合ってるよ。あなたが考えていることをもう少し言語化すると、どういう言葉になるかな?」と、学生自身による言語化を促すようにしました。教科書の特色は何かと問われて、「言語化」ですと即答したのは、そのような背景があったわけです。

この教科書では、言語化に対してふたつのアプローチをとっています。ひとつは、私自身の思考や推論の過程を言語化することであり、これが大部分を占めています。「はしがき」でけっこう挑発的に「問題意識あるいは危機感」を表明しておきましたが、そこで言いたかったのは、行政法の基礎概念について、言葉による説明がまだまだ全然足りていないのではないかということです。私が具体的にどのような意味で言語化に挑戦しているかは、また追って書く機会があればと思います。

もうひとつは、言語化の方法を言語化して学生に提示することです。法律論に限らない言語化の方法については、たぶんそれを専門に研究する学問分野があるのだと思います。私はそうした専門知識を欠いているので、本書で試みたのはあくまでも法律論の論証における私の経験を言語化することです。

上で見た「○○」「××」「△△」の例を使えば、法律家の仕事の多くの部分は、この「△△」に当たる中間項を探し、それを言語化することであるといっても過言ではないように思います。もちろん、これはきわめて単純化した図式です。しかし、法律論における理由づけのプロセスは、抽象的な概念を具体化し、具体的・個別的な事情を抽象化して、両者をつなげるプロセスであることが多いので、基本的な部分はこの図式で包摂できるのではないかと思います。本書では、この中間項を「中間的基準」と呼び、条文から中間的基準を導出する作業を「解釈」と定義して、条文を解釈し中間的基準を導き出し事実に適用する過程を図式化して示すとともに、解釈の方法を例解しました(以上につき、本書第7章「法の解釈・適用と行政裁量」、特に7.2.2)。

もっとも、法の解釈適用は個別性が高く、本書の説明はあくまでも単純な例を素材とした例解にすぎません。読者が自分の言葉で法の解釈適用の過程を言語化できるようになるには、判例研究や事例演習などを通じ、具体例に数多く接して練習や経験を重ねるしかありません。司法試験の受験を考えるのであれば、やはり問題演習に取り組むことは避けられません。しかし、従来の行政法の教科書には、その入口に連れて行ってくれる説明すらありませんでした。本書の第7章「法の解釈・適用と行政裁量」や第15章「個別法の解釈と適用――実体的違法事由(その1)」は、その欠を埋めることを狙っています。本書の「売り」になればいいなとひそかに願っているところです。

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