15th April 2024

昨年末に亡くなったおばあちゃんのことを日々の生活を送る中で度々、思い出す。

赤ちゃんの頃から同じ家に一緒に住んでいて、本当にたくさんの時間を一緒に過ごしてきた。
私が熱を出したときや、避難訓練などで保護者のお迎えが必須な時、保育園や小学校にいつも自転車で迎えに来てくれていた。

親は、おばあちゃんに頼り切っていたわけではないよと言っていて、それが真実なのだろうけれど、私の中ではなぜか、ちいさな時の記憶は、ほぼ、おばあちゃんといる時間として残っている。

友達にも「小学生の目から見ても、あなたはとってもおばあちゃん子だって思ってた」って言われた。

手を繋いで一緒に公園に行ったこと、スーパーマーケットに行って、お菓子を買ってもらったこと、紅茶花伝を買ってもらって、近くの公園で一緒に飲んだこと。
おばあちゃんの好きだったお菓子、好きだったお惣菜。
おばあちゃんの梅干しおにぎり。
一緒にお風呂に入ったこと、夜、一緒に寝たこと。
放課後、こたつでおやつを食べながらテレビを見ていたこと、夏休みにおばあちゃんの部屋で過ごした時間。

そのすべてを驚くほど、鮮明に思い出せる。
もう、生きてはいないけれど、私は頻繁に思い出して、そのたびに好きだよ、会いたいよって伝えて、べたな言い回しだけれど、クッキーもおばあちゃんも、ちゃんと今も生きているよ。

大変なこともあったし、おばあちゃん自身も、つらいこともたくさんあったと思うけれど、一緒に暮らせて、一緒に過ごせて、本当によかったし、孫として、もっとこうすればよかったとか、そういう後悔が本当に1つもない。

ちいさな時から、中学生、高校生、大学生、社会人になって、おばあちゃんが施設にいる間も、ずっと、おばあちゃんを心から大切に思って、それを行動でも示してきた。

相手といる時間の中で、相手のことをずっと大切に思ってきたと自信を持って言えること、1つの後悔もなく家族を見送れること、幸せなことだと思った。

そういう自分も誇りに思うし、そういう私でいられるような優しさをずっと与えてくれてたおばあちゃんに「ありがとう」。

こういう気持ちになるから、家族がいるっていいなと思う。
一人だったら、生まれない気持ちだから。
結婚しないっていう選択もあるのだろうけれど、自分もこういう家族間や人と人とのつながりで生まれる幸せな気持ちの連鎖の一部になりたいと思うのだよね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?