「皮肉について書こうと思っていた」のに

※ 最初に断っておくと、これは私が卒業論文でほんとうに書きたいと思ったテーマを否定され、ほぼ強制的にテーマを変更しろと言われ続け、仕方なく書いたものでしかないのですが(カントには全く何の罪もありません)、それなりの時間を掛けたということで’、供養’という意味でここに載せておきます。

在るがままの自分であるためには ―カントの理性批判から考える―                        

序章 研究背景

私は中学の時に一度、「貴方は無欲なんですか」と担任に面談で問われたことがある。

その時、『そんな筈はない』と首をかしげたことも記憶に新しい。

──なぜなら私は自分のことを「無欲」などと思ったこともなかったし、そもそも「他人」からその類を指摘されたことがなかったからである。

自身があまり他人を気にする性格ではなかったこともあって、周りから自分はそう見えているのか、という考えがその時初めて浮かんだ。(他人に言われてから初めてそのことに気づくということはよくあることである。) 自分の中で「自分」というものは、別段意識せずとも当たり前にそこにある、疑いもしないものであったことは間違いない。

 しかし、そのスタンスを瓦解させる出来事によって、私は本来の「自分」を失ってしまった。

──有体に言えば、「空虚」な状態になってしまっていたのだ。

それまで意識してこなかった「自分」が知らぬうちにすり減り、酷く痛めつけられていたのに気付いたのはそれから少し経ってからのことであった。

その時の自分は、自分が何をしたら楽しむことが出来るだとかいうことを含め、「本来」自分がやりたいことすら分からなくなってしまっていた。

── そこで私はどうにか本来の私に戻れないかということを見つけるべく「自分とはどのようにして作られたのか」について考察することにした。─その際参考にしたのがカントの『実践理性批判』と『道徳的形而上学の基礎づけ』だ。彼は、「自己を理性」だと捉え、理性が人格にどう関係しているのかを細かく考察し、理論立ててそれを発表した。目に見えないことを言葉にするのは中々容易いことではない。
── 今ここでもう一度、カントの思想をもとに、私達とはどうやって「自分」なるものになったのかを知るべきだと思った。

「理性的な存在者」とは

 イヌマエル・カントは、『道徳的形而上学の基礎づけ』及び『実践理性批判』において、そうではない者と区別して人間を「理性的な存在者」(カント2013 b、p.74)と定義付けた。では、カントのいう「理性的な存在者」とはどんな存在なのだろうか。これについて彼はこう述べている。

自然のすべての事柄は、法則にしたがって働いている。ただし法則の観念に基づいて、すなわち原理に基づいて行為する能力をもっているのは、すなわち意志をもっているのは、理性的な存在者だけである。( 同上2012, p.85)

 普段無意識のうちにしていることであるからか全く意識もしていなかったが、このようにカントは、私達を「法則」の観念に基づいて行為する者だとした。そして、カントの指す「意志」というのは、

ある種の法則の観念にしたがって行為するように、みずからを査定することができる能力と考えられる。このような能力は、理性的な存在者のうちだけにみいだすことができる。( 同上p.131 )

 としている。─ ここから分かることは、「理性的な存在者」は理性によって法則をみずからに設け、それによって行為を規定し、それを「意志」という能力として持っているということである。そして「法則から行為を導きだすには理性が必要であるから、意志とは実践理性にほかならない。」( 同上 pp.85-86 )という方程式をカントは示している。──しかし、これだけではありのままの「自分」の意味を発見するには些か抽象的が過ぎる。

よって、別の視点からも「理性的な存在者」という存在にもう少し踏み込まなければならない。

─ 次の引用文は『実践理性批判1』からのものである。

 理性的ではあるが有限なすべての存在者は、幸福になることを求める。これは必然的なことであり、この要素がその存在者の欲求能力を規定する根拠となることは、避けがたいことである。こうした存在者がその全存在において満足しているこの[幸福という]状態は、彼が生まれつき所持している状態ではなく、また何ものにも依存しないという自己充足の意識を前提とした浄福でもない。この存在者は、有限の存在という本性によって欠乏の状態に置かれているために、この[幸福な]状態に到達するという課題を実現することを迫られているのである。そしてこの欠乏の状態は、この存在者の欲求能力の実質にかかわるものであって、主観的なその[欲求能力の]根底にある快と不快の感情にかかわる。そのためこの欠乏したものによって、この存在者が自分の状態に満足するために[すなわち幸福になるために]必要なものが何であるかが規定されるのである。(カント2013a、 pp.71-72 )

 カントによれば、私達「理性的な存在者」は何かしらにおいて欠けているのであり、それに見合った欲求がそこから現れてくるのだという。私達人間は、知らずのうちに「欠乏」状態に陥り、「欲求」している状態にあるのである。

─逆に言えば、人生において「欠乏」を感じていない人間は「欲望」が浮かんでこないのではないだろうか。
この疑問は第2章で検討していきたいと思う。


このように「理性的な存在者」は「実践理性」によって「意志」を定めている傍ら「幸福」になるために「欲求」をつねに抱いているのである。

本論文の構成としてはカントとのいう「理性」や「欲求」という概念を一つずつ検討していきながら、最終的にはありのままの自分であるための方法を突き止めたいと思う。

第1節 「理性」とは何か

 すべての理性認識は、実質的な認識として、ある対象を考察するものであるか、それとも形式的な認識として、対象の違いにかかわりなく、知性[=悟性]と理性そのものの形式だけを、そして思考一般の普遍的な規則を考察するものであるか、のいずれかである。(カント 2012 p.12)

 

 このように「理性」とは認識したものを分析したり、秩序立てたりしてくれる役割を持っている。また、カントは『道徳的形而上学の基礎づけ』の「理性の使命」「理性の真の使命」で核心的なことを記述している。
 

 幸福ではなく、こうした高貴な意図を実現することが理性のほんらいの使命であり、こうした意図こそが[理性が存在するための]最高の条件であって、人間の個人的な意図よりも、こうした意図をはるかに優先すべきであると考えられているのである。というのも理性は、意志の対象を実現することにおいても、わたしたちのすべての欲望を満足させることにおいても(理性はこうした欲望をみずから増大させることもある)、意志を確実に指導する能力がないのである。この目的のためには、人間に植え付けられている自然な本能のほうが、はるかに確実に[人間を]導くことができただろう。(カント 2012 pp.36-37)

 なんと、カントは人間には「理性」よりも「本能」の方が確実に私達を導くことができると言っている。確かに本能はいわば「野生の勘」のようなものと言え、上手くことを運んでくれる時もある。多くの人間の中には、自らの「本能」で様々なことを乗り越えてきた人もいるであろう。──ここで改めて、「理性」の役割を見てみたいと思う。

通常の人間の理性はこの原理をいわば<羅針盤>のように使いながら、どんな事態が起きても、何が善であり、何が悪であるか、何が義務に適った行為であり、何が義務に反する行為であるかを区別することに熟達していることは、たやすく指摘できる。(カント 2012、p.61)

 これは、『道徳的形而上学の基礎づけ』からのものであるが、上の引用文の「この原理」(同上 2012、p.61)というのは「道徳的な認識の原理」(同上 2012、p.61)のことである。上のように、「理性」は「正義」の親玉のような、最後の砦のような概念であることが分かる。人間が何か間違いを起こさないように、思考を「善いもの」、そして「義務」的なものに目を向けさせようとする働きをしている。

しかしここで忘れてはいけないことがある。

いくら「理性」が「意志」に対して「善い」働きかけをしようとも、また私達人間がそれを「善い」ものだと認識できても、人間はそれに反した行動をしたり、そこから逃れたりしてしまうこともあるからである。

つまり、「理性」は対象や規則を考察し、何が善で何が悪なのかを「判断」しはすれども、それを行動に移すか否かは結局「私達」の行動次第なのである。

カントも言ったように、理性よりも「本能のほうが、はるかに確実に[人間を]導くこと」(カント 2012 p.37)ができるのにも関わらずなぜ「理性」は私達に与えられたのであろうか。

── この理由について著者はこう述べている。

 それにもかかわらず理性は実践的な能力として、すなわち意志に影響を及ぼすべき能力として、人間に与えられているのである。だとすると理性の真の使命は、それ自体において何かほかの意図を実現するための手段としての善い意志をもたらすことではなく、善であるような意志をもたらすことでなければならない。そのためにこそ、理性は絶対に必要だったのである。(カント 2012 pp.36-37)                                             

──この記述からは、「善なる意志」を私達にもたらすために「理性」はあるのだということが分かる。─しかし、この説明では、いまいちそれが想像しづらいので、「善なる意志」とは如何なるものであるというのかということを次の節で検証してみたいと思う。


第2節 「善なる」意志と理性

 私達にとって「善い意志」とは何であるのか。
それを順を追って考えていこうと思う。

 まず、私たちの中の「善悪」という概念は、

とは、わたしたちの欲求能力の必然的な対象であり、とはわたしたちの忌避能力の必然的な対象である。どちらも人間の理性の原理にしたがっている」(同上 2013a、p.167)

ものであり、

「道徳的な法則の基礎となるものでなければならないと思われるかもしれないが、しかし道徳法則に先立って善と悪を規定するのではなく、すでに指摘したように、まず道徳法則が定められてから、道徳法則だけにしたがって、初めて善と悪が規定されねばならないのである。」(同上 2013a、p.180)

とカントは言う。──このように、「善悪」とは「理性」の原理に従っているものであり、それらよりも先に「道徳法則」なるものが定められるのだという。これらはどちらも「理性」の関連事項として著者は扱っている。

 次に、「善」い意志についてだが、この概念についてカントは

「それ自体で高く評価されるべきものであり、その他の意図とはかかわりなく善なるものである」(カント2012 p39)

としている。

また、この意志は

「善い意志そのものを促進して、この善い意志がきわめて円滑に働くことができるようにするものがある」(同上 2012、p.30)

という。

それとしては、

「自分の激しい情動や情熱を抑制する傾向、自己の制御、冷静な配慮」(同上 2012、p.31)

などがある。

「しかしこれらの特性には多くのものが欠けているので、無制限に〈善い〉ものとみなすことはできない。」(同上 2012、p.31)

ともカントは述べている。

それでは、「理性的な存在者」が絶対的であるためにはどうすればいいのかというと、

[道徳的な]法則の観念がその意志を規定していなければならないのだった。・・・(中略)・・・言い換えると、わたしは自分の行動原理がまた普遍的な法則となることだけを意欲しうるという形でしか、行動してはならないのである。」(同上 2012、pp.55-56)

ということである。──また、「意志の行動原理が、自律の法則と必然的に一致する場合」 (同上 2012、p.168)、それは絶対に善い意志である。ここで出てきた「行動原理」そして「自律」という概念は後の章で検討していきたいと思う。


第三節 法則にしたがうこと


 この善なる概念の集大成として「義務」というものがある。

──この概念は「すべての理性的な存在者に妥当」(同上 2012、p.124)しなければならないものであり、

「必ずしも善い意志でない意志が、自律の原理にしたがっている状態(道徳的な強制の状態)は、責任を守ることである。責任に基づいた行動の客観的な必然性」を義務と呼ぶ。この「義務」の概念を促進するためには「理性的存在者」に「あること」を求めなければならないのだとカントは言う。

 理性は、普遍的な法則を定めることをそのままで尊敬することを私に求める。・・・(中略)・・・また純粋な尊敬に基づいて、わたしが[法則にしたがって]必然的に行為することが義務であること、そして義務はそれ自体で善い意志の条件であり、その価値は他のすべてのものを凌駕するものであるから、他のすべての動因はこの義務に道を譲らなければならないこと、これらのことをただちに理解できるのである。(同上 2012、pp.60-61)

──この考察からは、私たち「理性的な存在者」が心の底からの法則への「尊敬」がなければそれは「義務」ではないということが分かる。結果的に言えば「理性的な存在者」が在るべき姿として、「法則」に素直な「尊敬」を抱く精神性を持つ、ということが挙げられている。それがそのままこの「義務」という概念に繋がるというのであれば、その第一歩として「純粋」な意志を持つことが私たちに求められているのは明確なことである。

しかし、「現実」として、「義務」として定められているルールや行為であっても、それを少なからず「不満」に思うことは誰しもあるのではないか。仮に、その「義務」の正当性を示されたとしても、やはりどこか納得できないこともあるのではないか。

個人的にではあるが、「義務」という言葉は堅苦しく、何かが滞っているような感じを受ける。
このように人間はまるで機械のように存在する全ての「法則」そして「義務」に素直に従うという構造には作られてはいない。

ここで問題になっているのは、「理性」と「欲望」の均衡である。カントは人間が自らの「理性」から「義務」を提示された時の私達について鋭い描写をしている。

理性は、義務の掟をきわめて尊敬すべきものとして人間に提示するのであるが、人間はみずからのうちに、こうした義務のすべての掟に強く逆らうものが存在するのを感じている。これはさまざまな欲望や心の傾きであって、人間は幸福の実現という名のもとで、このような欲望や心の傾きをすべて満足させたがる。(同上 p.64)  

──恐らく、大抵の人は常識であると想定する「義務」に関しては何も思わないであろうが、自分の中で同意を得ないような場合には「それ」に何かと反発しがちなことがよくある。─現代の若者などは、自分が「良くない」と感じた事に従順になるのはそれこそ「自分」が「自分」ではなくなっている気がしてならないのである。・・・またここで、「心の傾き」という概念が新たに登場してきた。これについて次は検討してみたいと思う。

第2章 欲望
第1節 欲望について

「理性的ではあるが有限なすべての存在者」( カント2013a、 p.71 )は全知全能の神にはなれないのであり、序章で言及したように「欠乏」の一途を辿っている。その原因として挙げられているのが「心の傾き」である。

人間が多くの悩みごとに迫られ、さまざまな欲望が満たされないために、自分の境遇に不満を抱いていては、義務に逆らおうとする大きな誘惑を感じやすくなるものである。 (中略) というのは幸福を求める心の傾きはきわめて強いものとして、人間の心のうちに潜んでいるからである。人間のもつあらゆる心の傾きは、まさにこの幸福という理念のうちに集まって統一されるのである。(同上 2012、pp.45-46)

 生きていれば、多少の困難が遮り、自分を追いつめるという体験は誰しも一度はあることである。そこで挫けずに、克服してやろうという気が起きれば何も問題は起きないはずなのだが、どうしようもない困難が襲ってきたとき、それに負けてしまった時、私達の精神及び身体は悪い方向に行ってしまうに決まっている。・・・その時生まれてしまうものが「心の傾き」なのだとカントは言う。「心の傾き」についての説明、また「それ」が生みだすものについて著者は『実践理性批判2』で詳しく説明している。

 こうした心の傾きは全体として、我欲(ソリプシスムス)を構成する。この我欲は、みずからへの極端な好意(フィラウティア)たる自愛としての我欲であるか、みずからへの自己満足(アロガンティア)としての我欲である。自愛とはとくに自己愛と呼ばれ、自己満足はとくに自負と呼ばれる。
自愛については、純粋実践理性はこれをただ毀損するだけである。自愛は自然なものであり、道徳法則に先だってわたしたちのうちで活動し始めるものであるので、純粋実践理性は道徳法則と一致するものだけを認めるように、自愛を毀損するのである。そのときこの自愛は、理性的な自己愛と呼ばれるようになる。
これにたいして<自負>については、純粋実践理性はこれを完全に破壊する。道徳的な法則と一致する前から存在する自己尊重の要求は、すべて取るに足らないもので、いかなる権能ももたない。(同上 2013b、pp.19-20)[SH7]

──ここから分かるのは、「心の傾き」から生まれた「我欲」は「自愛」にしろ「自己満足」にしろ自分に対して「内向き」である部分に「固執」した感情だということである。それは「他人」に向けられればいわゆる「執着」というものに成り代わるのであろうと私は考える。これらの概念を理性は「道徳法則」と一致しないとして、排除する傾向にあるということが分かる。

しかし、私達の中にある「心の傾き」及びそれに付随する概念はそれの「根が深い」ものであればあるほど「理性」をもってしても完全に排除することは難しいのではないかと筆者は考える。しかし、カントは「つねに盲目的で奴隷的な」(カント 2013b、p135)心の傾きは「まったく存在しなくなることが、すべての理性的な存在者の普遍的な願いであるべきなのである。」(同上 2012、p133) としている。その理由として、「心の傾きは変わりやすいものであり、これを優遇しているとますます大きくなり、最初に満たそうとしていたよりもさらに大きな空虚を後に残すからである。」 (同上 2013b、pp.134-135)としている。

ここまでで、カントのいう「心の傾き」は、「理性的な存在者」にとって本来必要ではないものであり、それが私達をさまざまな欲求へと導くのであり、しかもそれは結果的には私達を良い方向に向かわせないのだということが理解できた。

第二節 欲求能力の種類

 ここまでの参照の結果として「心の傾きそのものは、欲望を作りだす源泉である」(同上 2012、p.133)という関係性が成り立つのであれば、その「欲望」がない人間とはどういった存在になるのだろうか。「欲望」がないことはすなわち「意志」がないということではないのか。そもそも、欲求とは私たちにただ悪い影響を及ぼすしかないのか、という疑問をこの節で解決していきたいと思う。この概念について『道徳的形而上学の基礎づけ』においてカントは下のように言及している。

自己の幸福を優先するという原理は、その原理のもとで知性や理性がどれほど使用されようとも、意志にとっては下級の欲求能力にふさわしい規定根拠しか含むものではない。(同上 2012、p.69)

 ここで比較されたいこととして、序章で列挙した「理性的な存在者」の「性質」の一つをもう一度書いておきたいと思う。

理性的ではあるが有限なすべての存在者は、幸福になることを求める。これは必然的なことであり、この要素がその存在者の欲求能力を規定する根拠となることは、避けがたいことである。(カント2013a、 p.71)[SH8]

 この二つの考察文を合わせて考えると、有限な人間が「幸福」になることを求めることは「下級の欲求能力」とカントは言っている。これと区別して

「理性が心の傾き[=傾向性]に奉仕することなく、それだけで意志を規定する場合にかぎって、理性は真の意味での欲求能力であり、感受的に規定される欲求能力は、この上級の欲求能力に従属するのである。」(同上 2012、p.69-70)

としている。ここから分かることは、人間には「下級の欲求能力」と「上級の欲求能力」があるということである。
「欲求能力の実質としての「快・不快」」(同上 2012、p.69-70)という観念から形成された「欲求能力」はどうあがいても低次な欲望にしかなりえず、理性が「実践的な規則」(同上2012、p.69-70)の形式にのみ従う時に、それは初めて「上級の欲求能力」になるということである。この「実践的な法則」とは「定言命法」(同上 2012、p107)のことで、これは「道徳性の命法」(同上 p.97)として、「行為の本質的な善を作りだす」(カント 2012、p.97)ものだという。そうなると、意志を決定する概念が「快や不快」であるか「定言命法」であるかで、その実質も変わってくるということが分かる。

 第1節の「心の傾き」からなるものは、理性が毀損するという事実と、私達の「欲求能力」には下級のものと上級のものがあるということから、

「下級の欲求能力」 ⇒ 自分というものが不安定で、欠如しているものを満たすための欲求。歯止めの利かない時もあるために、理性はこれを監視する。

・「上級の欲求能力」 ⇒ 自分の実質は変わらず、理性によって破壊もされない。理性とともにある歪みのない欲求。ありのままの欲求。

と区別しうるのではないかと筆者は考察した。

第三節 意欲と行動原理

 カントが『実践理性批判』及び『道徳的形而上学の基礎づけ』において着目した概念の中で、重要なものがまだある。

それは「行動原理」と「意欲」というものである。第1章第1節で、筆者は本当に「善い人間」になるには「理性」がそう判断するだけでなく、客観的に見て「善い」と思うことを行動に移さなければ意味がないのではないか考えた。

カントのいう「行動原理」とは、行動原理について

行為するための主観的な原理であり、実践的な法則である客観的な原理とは区別しなければならない。行動原理には、主体のさまざまな条件にふさわしい形で(これには主体の無知や心の傾きも含まれる)、理性が規定する実践的な規則が含まれる。これは主体がそれにしたがって行為するための原則である。(同上 2012、p.111)

 ここで大事なことは「行動原理」はあくまで「主観的な原理」であり、客観的な「法則」とは一線を画しているということである。しかしこの概念は「理性」の規定する「実践的な規則」も含まれうるし「心の傾き」のような概念も含まれるのだという。

この「行動原理」(同上 2012、p.161)が「絶対に善い意志」(同上 2012、p.161)であるには、「いつでも、同時に法則として普遍性をもつことを意欲できるような行動原理にしたがって行為」(同上 p.52)することが必要である。この部分は第1章第3節で出てきた概念である「義務」に置き換えることができる。つまり、「義務」を「行動原理」として「行為」することは「善い意志」を持つことと同義だということだ。そして、最終的にはこの「主観的な原理」を「心の傾き」からくるものでなく、「実践的な規則」に従うというものにすればカントのいう「実践的な人間」になれることは間違いないであろう。

さて、「行動原理」という概念から「意欲」が生まれる。

カントは私たちが「行為することを決意」(同上 2012、p.49)することをそれという。

また、この概念は「行動原理」がもとになっているので、この中には例に漏れず「客観的原理」だけではなく「主観的原理」も含まれるだろう。
この客観的原理、すなわち「義務に基づいて人間が行動しようと意欲するときには、すべての利害関心が放棄されている」(カント 2012、p.144)らしい。この記述から「意欲」は「欲求能力」のうち、低次なものとは区別されえるといえよう。


第3章 自由とは何か
第1節 自由と「理性的な存在者」

カントの著書を読み進めると必ず出てくる概念がある。それは「自由」というものである。

「自由」は捉えどころのない、果てしなく強大で、そして形容し難い概念である。

よって、この章では「自由」と関連の深い概念との関係性を含めて「自由」とは何かをまとめていきたいと思う。

 
まず著者は

「自由は、すべての理性的な存在者の意志の特性として、前提されなければならない」(カント 2012、p.189)

概念であると主張する。
また、カントは 126 意志と自由において、

「自由は、この原因性の特性であって、この[意志という]原因性が、それを規定する外部の諸原理から独立して働くことができる場合に、自由と呼ぶのである。」(同上 2012、p.185)

としている。

ここで出てくる「原因性」とは、「法則という概念を伴うもの」(同上 2012、p.186)であるが、自由は「自然法則にしたがう意志の特性ではない」(同上)が「法則なしに働くものではない」(同上)と二重の意味で捉えられている。

では、自由がどのような法則を持っているかというと、それは「特別な種類の不変な法則」(同上)だという。

また自由についての重要な言及で、

「理性的な存在者の意志は自由の理念のもとでのみ、みずからの意志であることができる。」(同上 p.191)

とカントは断言している。

この説明としては以下のものがある。

理性が道徳性の原則において自律しているという事実・・・(中略)・・・この自律によって理性は意志を行為へと規定するのである。またこの分析論が同時に明らかにしたのは、この事実は意志の自由の意識と分かちがたく結びついていること、それだけでなくこの自由の意識と一体のものであるということである。(同上 2013a、p.120)

この文章を分かりやすくするために簡易化すると、「理性」の自律によって、「理性」は「意志」を「行為」へと変えられるということだ。
そしてこれは「意志の自由」と分かちがたく結びついているので、それは初めて「みずからの意志」であることができるのだという。

また、他の概念との関係性については、「理性的な存在者」には「自由と切り離せない形で結びついたすべての法則が妥当する。」(同上 p.190) という。

これはどういった意味合いなのだろうか。これについて順を追って明らかにしていきたい。

第2節 自由と自律

「自由の概念は、意志の自律を説明するための<鍵>となる」(カント 2012、p.185)

 自由を説明する場合において、重要な役割を果たす概念に「自律」というものがあるとカントはいう。

 著者によれば、「自律」とは「みずから定めた普遍的な法則にしたがう」(同上 2012 p.148)ということ、そしてその反対の概念の「他律」は次のことを指す。

 意志がみずからを規定すべき法則を、そのさまざまな行動原理が、みずからに普遍的な法則を定める行為に役立ちうることに求めず、どこかほかの場所に求めるならば、すなわち意志がみずからを超えて、何らかの客体の特性のうちにその法則を求めるならば、ただちに他律が生じる。(同上 2012、p.171-172)

 つまり、自分の「行動原理」がみずから定めた普遍的な法則にではなく、その他の客体に依存しているならば「他律」になるのだと著者はいう。そもそも「意志に」自分以外のものが入っている時点でこれは「自由」に属するものとは呼べないのである。

もし「自律」的な存在者を目指すのであれば、「意志がみずからを普遍的な法則を定める者とみなすことができるような行動原理にしたがって行動せよ」(同上 2012、p.152)と著者は言っている。

 さて、自律と自由の関係性だが、「自由の理念には自律の概念が分かちがたく結びついて」(カント 2012、pp.203-204)いて、繰り返しのようになるのだが「意志の自由とは自律であること、すなわちみずからに法則を与えるという意志の特性であるとしか考えられない」(同上 2012、pp.186-187)とも彼は言っている。このことはカントからしてみれば「積極的な意味での自由」(同上 2013a、p.97)であり、そしてその「理性的な存在者」が定めた「道徳法則が表現しているのは、純粋実践理性の自律であり、すなわち自由にほかならない。」(同上 2013a、p.97)とカントは言っている。

第3節 自由と法則

 理性がこの法則を、いかなる感性的な条件によっても制約されないものとして、こうした条件からまったく独立した[意志の]規定根拠として示すときに、この法則から自由の概念へと、そのまま導かれるのである。(同上 2013a、p.84-85)

 一見すると「自由」と「法則」は関連のないように見える。しかしカントはこれらの概念は密接に関係しているといっている。この二つの概念にはどのような関連があるのか、そこで言われる「法則」とはどのようなものかをこの節で検討してみたいと思う。

まず、そもそも「理性的な存在者」は「みずから定めた法則にしか、服従しないもの」(同上 2012、p.153)であり、「目的の国」(カント 2012、p.149)において「立法者」(同上 2012、p.143)の立場をとる者である。(この事実は、「どのような法則が私たちを自由に導くのか」を説明する鍵となる)この国では「さまざまに異なる理性的な存在者が、共同の法則によって体系的に結びついている状態」(同上 2012、p.149)にあり、他人を「たんなる手段としてだけではなく、むしろ同時に目的そのものとしてあつかうべきでるという法則」(同上 2012、p.150)が定められている。つまり、自分の「欲望」を満たすために他人を使うことなどはこの国の中ではあってはならないのだとカントは言っている。また、この国の国民は他の理性的な存在者を「目的」そのものとして接するために自分の「意志のすべての行動原理を他の理性的な存在者の意志と結びつけ、さらにみずからにたいして行われるすべての行為に結びつけて考え」(同上 2012、p.153)ているのだと著者は説明している。これこそ相手のことを考えて行動する、人間の手本のような行為に繋がるに違いない。そして、こういった善い行為をしようとする「行動原理」を定めているのが次のような「法則」である。

意志の原因性としての自由をそなえているのは理性的な存在者であり、この理性的な存在者の最上の実践的な法則が、この道徳法則だからである。この自由と道徳法則という二つの概念は分かちがたく結びついているので、実践的な自由とは、意志が道徳法則のほかにいかなる法則にも依存しないことであると定義できるほどである。(同上 2012、p.73)

 このように、「理性的な存在者」が「道徳法則」にのみ従うことによって、私たちは「自由」を手に入れることが出来るのだとカントは言っている。このことをさらに決定づける証拠として、

実践的な法則は意思の自由を考慮にいれた場合に初めて可能となり、しかも自由を前提とすることで必然的なものとなるからである。逆に表現すると、自由が必然的なものとなるのは、実践的な法則が実践的な要請として、必然的であるからである。(同上2013b、p.132-133)

という箇所を挙げておこうと思う。

この2つの概念の関係性としては「自由と、無条件で実践的な法則は、たがいに相手を指示しあう関係にある。」 (カント 2013a、p.84-85)とカントはいう。なぜなら、「自由な意志は、法則の実質からは独立したものでなければならないが、その意志を規定する根拠は、法則のもとに求める必要がある」(同上 2013a、p.84)からだ。

そして、この「自由」の概念と「無条件的で実践的なもの」の概念のどちらが先に始まるのかというと、「この認識が自由から始まることはありえない。自由の最初の概念は消極的なものであって、自由を直接に認識することはできない」(同上 2013a、p.85)、そして「わたしたちは意志の行動原理を定めるやいなや、まず道徳的な法則を直接に意識するのであって、この法則がわたしたちに最初に現れてくるのである。」という記述がある。つまり、自由を認識するのは「道徳的な法則」を意識してその後ということである。

 さて、この章ではカントが定義した「自由」について見てきたわけであるが、簡潔に言えば「自由」とは「理性的な存在者」が「道徳法則」のみにしたがって「意志」を決めることで初めて認識するものだということだ。

第4章 考察と結論


 結論から言うと、「ありのままの自分」であるためには本当の意味での「自由」と確固たる「意志」が必要なのであった。

何故このような結論に至ったかということを段階を踏んで述べていきたい。以下、カントの主旨をまとめた上で、筆者の考察及び意見の始まりには――を付けるものとする。

序章・第1章について

まず、カントは私たちを「理性的な存在者」であると定め、その特性として「法則の観念に基づいて、すなわち原理に基づいて行為する( 同上2012, p.85) 」意志というものを持ち合わせているとした。この「意志」は「実践的な理性」に他ならず、この理性は「思考一般の普遍的な規則を考察するもの」(カント 2012、p.12)であるとした。私たちはこの理性を「羅針盤」(カント2012、p.61)のように使いながら何が悪であるか、何が善であるか、何が義務であるかそうでないかということを区別するという特性も持ち合わせていた。しかし、カントは人間の理性は私たちの「意志の対象を実現することにおいて」(カント 2012 pp.36-37)「本能」よりも劣っているのであり、確実に意志を導くことができない概念であるともした。

――理由として、私は「理性」は「観察対象」となるものをどれだけ客観的に考察できようとも、その結果として「存在者」自身が「しなければならないこと」や「今ある状態」を単なる「事実」として私たちに叩きつけてくるのであり、それを行動にするか、是認あるいは否認するかどうかは、私たち自身の「意志」のまた別の主観的な概念が行っているからだと考えた。(もし理性が判断した事を私たち自身が否認するならば、それは自身の心が歪んでいるか、「現実逃避」の状態に陥っているに違いない。) 

そのような事実がある中で、なぜ私たちに「理性」が与えられたかというと、それは私たちに「善であるような意志をもたらす」(カント 2012 pp.36-37)という役割を「理性」が担っているからであるとした。ここでいう「善なる意志」とは「意志の行動原理が、自律の法則と必然的に一致する場合」[SH10] [SH11] (同上 2012、p.168)そうなるのだとした。

また、「義務」という概念は「必ずしも善い意志でない意志が、自律の原理にしたがっている状態(道徳的な強制の状態)」であるとカントはした。そしてこの概念は「すべての理性的な存在者に妥当」(同上 2012、p.124)しなければならないものであるともした。しかしこの概念は「普遍的な法則を定めることをそのままで尊敬」(同上 2012、p.60)できなければそれたりえないのだと著者は言う。

――義務という概念については、著者は物事に「義務」づけをしすぎると人間らしいものが擦り減っていってしまうような気がする。恐らく、大抵の人は常識であると想定する「義務」に関しては何も思わないであろうが、自分の中で同意を得ないような場合には「それ」に何かと反発しがちである。現代の若者などは、自分が「良くない」と感じた事に従順になるのはそれこそ「自分」ではなくなっている気がしてならないのである。


第2章について


 しかし、私たちの多くは「理性的な存在者」のすべてに「義務」が妥当しているといってもそれに従いたくない、という感情がどこかに芽生えるのを感じているのであって、これは「さまざまな欲望や心の傾き」(同上 2012、 p.64)からくる必然的な結果であるとした。この「心の傾き」は「低次」な欲望の源泉であり、「有限の存在という本性によって欠乏の状態に置かれている」(同上2013a、p.71 )私たちに現れてくるものだとした。しかし、「心の傾き」は本来私たちには要らないものであり、理性はここから派生したものを棄損するとした。

――「心の傾き」は根源的に「悪の」ものだと私は考える。なぜならこの概念は、「理性」の弱い、つまり「意志」の弱い人間を生みだしてしまうからである。一度「心の傾き」からくる「欲望」を「行動原理」に規定してしまうと、その「欲望」が満たされることに執着してしまい、自分の中の「理性」と意見が対立し、本来一つであるはずの「意志」が二分されてしまい、自分のこうありたいという「理想」と今ある「現実」のふり幅が大きくなり、その二つの乖離によって自分に「不満」を抱くようになり、「心の傾き」が増大してしまうからである。この概念は「他律」の根源である「他者」から「自分」の領域に持ち込まれた絶対的に「不要な要素」だからである。普通であれば、自分は「自らの意志」を純粋に信じれば良いのであるが、そこに「他者」が何らかにおいて強く影響し、自分の中のある「基準」が少しでも「他者」に置きかわってしまえば、それは「他人」に判断を任せているのと同じであり、「本来の私」から離反するきっかけとなってしまうからである。

しかし、「欲求能力」はそれが「何」からできているかで区別されうるのであり、一元的な意味合いのものではないとカントは言う。まず、理性が「実践的な規則」(同上2012、p.69-70)の形式にのみ従う時、それは「上級の欲求能力」になるとした。もう一方は「つねに盲目的で奴隷的な」(カント 2013b、p135)心の傾きからきたもので、これは「下級の欲求能力」にしかならないと彼は述べた。

――ここから私は、下級の欲求能力は何かしらにおいて「欠けている」状態において発生するものであり、「理性」との関連として「理性」はこれを監視、そして棄損するものだと考察した。一方「上級の」欲求能力は「欠乏状態」からくるものではないために、理性とともに共存できる欲求であるのではないかとした。

また、第2章第3節において私は「意欲」と「行動原理」の2つについて言及した。これらの関係性としては、「行動原理」が自分の中で定められてからそれがみずからの「意欲」となるのだとした。前者は「主観的な原理であり、実践的な法則である客観的な原理とは区別しなければならない。」(同上 2012、p.111)ものであるとした。――しかし、その内情には「実践的な法則」も含まれていることから、2つの領域を持った原理なのだと思った。そこから発生する「意欲」も同義的な立ち位置にあるのであり、「低次な欲求」とは線引きされているものなのだと感じた。

第3章について

 私は、第3章で扱った「自由」という概念が今回の私の研究テーマにおいて最も重要な役割を持っているということはその性質から理解できた。この領域において、一貫してカントは私たちにはこの概念が「前提されている」と位置付けていた。そしてそれは意志の「自律」と分かちがたく結びついているとカントは明確な語り口でいっていた。¹その時は「他律」という反対の概念と比較し、みずからの「行動原理」がみずから定めた法則でなく何かほかのものに依拠しているならばそうなるのだとした。この、みずから定めた法則が「道徳法則」である限り私たちは「自由」のただ中に在れるのだと著者は言っている。

――しかし、不特定多数の人間は本当の「自由」には触れ得ていないのだと感じる。なぜなら、「理性的な存在者」である人間は、何人たりとも「自由」が確約されているにも関わらず、「他律」によって「欲求」を満たすことが当たり前となり、「真の意味」で「自由」になることから自ら遠ざかり、言い換えれば「心の傾き」を満たすことによってしか満足を得られない人間になってしまい、実質的には「自由」から程遠い状況になっていると私は考えるからである。本当の意味での「自由」を手に入れていない人達は、この概念の意味合いを誤って認識しているのであろうか。もしそうであるならば、その誤った「自由」のもとで生きている人間という「存在」が間違っているものであると、そういっていることと同義ではないのか。こういった人達は本来「理性」的で「自律」的であるべき概念の領域を縮小し、「心の傾き」から出た「欲望」をみずから「行動原理」にしようとしている。みずから「他律」的であろうとしている。それが「普遍的」であると認識しているうちは、本当の「自由」は露ほども手に入らない。盲目は盲目のままになってしまうのである。かくいう私は、「理性的な存在者の意志は自由の理念のもとでのみ、みずからの意志であることができる」(同上 p.191)のであるのに、自身の「理性」が「正しくない」ことだと認識しているのも関わらずそれを振り切って「真逆」のことをやってしまったがために、「精神」が歪曲し「私とは何であるのか」ということが分からなくなってしまったのである。感情からくる「思い込み」が激しくなると、「意志」がそちらの方向に向かってしまい、ありのままの「自分」というその形が変わっていってしまうのである。「理性的な存在者」の内で、不変的な本質を持つ「理性」を信じなければ、私たちは何を信じればいいのか。カントの言う「実践的な」人間とは、前提として心に空虚を残すような「欲望」は棄て、「理性の言う「すべての存在者に妥当するような行動をしろ」という命令に対して何の疑惑も(何の疑いも起こさず)、そしてそれに純粋に従うような「行動原理」あるいは「意志」を持てるような人間にならなくてはならない。そこから出た「上級の欲求能力」こそが、「理性的な存在者」にふさわしい欲求であり、その欲求を叶えていくことで「ありのままの自分」を証明していかなければならないのである。


<参考文献>
1) カント『道徳の形而上学の基礎づけ』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2012 
2) 同上『実践理性批判1』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2013a
3) 同上『実践理性批判2』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2013b

 最終的にその教授はお褒め下さった(皮肉です)のですが、何かの代わりに書いた心からのモノでない文など評価されてもそこまで喜べない自分がいました。今思えば、強行突破で本心のモノを書いておけばよかったのかもしれない、と後悔しています。

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