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比叡山の回峰行の始祖・相応和尚の墓である相応和尚塔(相応廟)(無動寺谷 比叡山延暦寺)

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比叡山における回峰行といえば、千日回峰行が有名です。その千日回峰行に代表される、比叡山の回峰行(北嶺修験)の始祖とされている、相応和尚(そうおうかしょう)という、平安時代の仏教僧がいます。(ちなみに、相応和尚は、建立大師(こんりゅうだいし)という通称で呼ばれることもあります。)

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その相応和尚(そうおうかしょう)の墓である、相応和尚塔(相應和尚塔)が、比叡山延暦寺の無動寺谷の地区の、山林のなかにあります。(相応和尚塔は、相応廟と呼ばれることもあるようです。)また、その相応和尚塔(相応廟)の前の石段の両脇には、遍斅僧都(へんごうそうず)の墓である遍斅僧都塔(遍斅廟)と、慈鎮和尚(じちんかしょう)の墓である慈鎮和尚塔(慈鎮廟)があります。

相応和尚塔(相応廟)の場所は、緯度経度で表現すると、「緯度経度: 35.064289, 135.846430」のあたりの山林のなかです。

参考: Googleマップ上の「緯度経度 35.064289, 135.846430」の地点の地図のURL
https://goo.gl/maps/y18oFkLz8umykcY76


相応和尚の墓である相応和尚塔(相応廟)

相応和尚の墓である相応和尚塔(相応廟)は、比叡山延暦寺の無動寺谷の地区の、北東の山林のなかにあります。

この相応和尚塔 (相應和尚塔) (相応廟) は、比叡山延暦寺における回峰行の創始者とされていたり、無動寺谷の地区の本堂である明王堂を開創したとされている、建立大師相応和尚(こんりゅうだいし そうおうかしょう)の御廟です。

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慈鎮和尚の墓である慈鎮和尚塔(慈鎮廟)

この上の写真に写っている、相応和尚塔(相応廟)へとつづく石段の下のところの左側には、慈鎮和尚(じちんかしょう)の墓である、慈鎮和尚塔(慈鎮廟)があります。
(この下の写真の左はしに写っているのが、慈鎮和尚塔(慈鎮廟)です。)
(この下の写真の右奥に小さく写っているのは、遍斅僧都塔(遍斅廟)です。)

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慈鎮和尚(じちんかしょう)は、相応和尚が亡くなってから200年以上あとの、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての時期を生きた人です。(ちなみに、「慈鎮」というのは、死後に贈られた諡(おくりな)であり、慈鎮和尚は、生前は「慈円」と呼ばれていました。)

慈鎮和尚は、関白であった藤原忠通の息子であり、比叡山延暦寺の天台宗の教団の頂点に立つ、天台座主(てんだいざす)の地位に、4回も就任した人物です。また、慈鎮和尚は、無動寺谷の地区にある大乗院を住房としていたこともあり、無動寺谷にゆかりのある人でもあります。

ちなみに、慈鎮和尚は、文人や歌人としても有名です。慈鎮和尚は、歴史書『愚管抄』を書いた文人であり、また、彼がつくった和歌をあつめた歌集『拾玉集』がつくられるほどの歌人でもありました。


遍斅僧都の墓である遍斅僧都塔(遍斅廟)

また、相応和尚塔(相応廟)へとつづく石段の下のところの右側には、遍斅僧都(へんごうそうず)の墓である、遍斅僧都塔(遍斅廟)があります。
(この下の写真の右はしに写っているのが、遍斅僧都塔(遍斅廟)です。)
(この下の写真の左奥に小さく写っているのは、慈鎮和尚塔(慈鎮廟)です。)

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遍斅僧都(へんごうそうず)は、相応和尚の直弟子であり、左大臣であった藤原仲平(枇杷大臣)の息子だとされている人です。

藤原仲平は、相応和尚のために、無動寺谷に不動明王の像を寄進したことがあり、こうした藤原摂関家の援助をうけて、無動寺谷の堂宇が整備されていったそうです(参考文献: 村山修一『比叡山史 : 闘いと祈りの聖域』220ページ)。遍斅僧都が、相応和尚の直弟子として活躍することができた背景には、こうした、藤原摂関家が相応和尚に援助をしていたことが影響しているようです。


相応和尚塔(相応廟)や、そこへの道のりの映像

この下の動画は、相応和尚塔(相応廟)や、その周辺を撮影した映像です。(なお、映像のなかでは、なにも話していないので、終始無言です。)

無動寺谷の地区から、相応和尚塔(相応廟)への道のりは、つぎのとおりです。無動寺谷の地区の、南東のはしのところに、玉照院という建物があります。その玉照院の前の道を下っていくと、ちいさな谷川が流れている沢があります。その沢のあたりに立っている道標から北へすこしいくと、6つのお地蔵さん(六地蔵)があります。その六地蔵の背後にある、つづら折りの山道を登ったところに、相応和尚塔(相応廟)があります。

この下の動画は、相応和尚塔(相応廟)や、その周辺を撮影した映像です。

この下の動画は、さきほどお話した六地蔵があるところから、相応和尚塔(相応廟)までの道のりを撮影した映像です。

この下の動画は、かなり暗い映像になってしまっていますが、それは、この映像を撮影した時間帯が日暮れごろになってしまったことと、この日は天気がくもりだったためです。ですので、映像の暗さを補うために、できるだけ明るい映像になるように、明るさを調整しました。その結果、すこし、ホラー映像のようになってしまっています(汗)。ですが、この場所は、日中であればふつうに明るい場所であるようです。

ちなみに、この上の動画のなかの、4:19、4:42、5:13、のところでは、なにやら不気味な鳥の鳴き声が聞こえます。この鳴き声は、どうやら、フクロウやミミズクなどが威嚇をするときに出す鳴き声であるようです。下記のURLの動画は、フクロウやミミズクの威嚇の鳴き声についての参考の動画です。
(※注: 下記のURLの動画では、フクロウやミミズクの鳴き声が大きくて、不気味な鳴き声なので、ご覧になるときは、すこし注意が必要かもしれません。)

(参考の動画)
ワシミミズク 鳴き声 フクロウはホーホーだけじゃないんだよ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bNbT4l_bfh8
フクロウの威嚇と絶叫 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=U8xfHKueGhY
不気味な鳴き声の生き物 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1aHI7dNYAJ0


追記 : 明王堂~相応和尚塔(相応廟)への道のりの映像(午前中)

かんたんに文字で説明すると、下記のようなルートになります。

・無動寺谷の本堂である明王堂の南東の石段を下っていく。
 (法曼院の前を通る。)
  ↓
・石段の下の三叉路の東側の坂道を下っていく。
 (護摩堂や、宝珠院の前を通る。)
  ↓
・大乗院の横の下り坂を下っていく。
  ↓
・玉照院の前のカーブしている道を通って、下り坂に入っていく。
  ↓
・下り坂の途中にある、獣よけの柵のとびらを通る。
 (獣よけの柵のとびらを通った後は、必ずとびらを閉めてください。)
  ↓
・つづら折りの坂を下っていく。
  ↓
・つづら折りの坂の下に、
 小川と、そこに架かっている丸太の橋があるので、
 その丸太の橋を渡ると、道標が立っています。
  ↓
・道標が立っている場所が三叉路になっているので、
 北側に伸びる道へ進みます。
  ↓
・すこし行くと道の左手(西側)に、六地蔵が立っています。
 そこが坂道の入口になっています。
  ↓
・六地蔵の背後側に、つづら折りの坂があるので、その坂を登っていく。
 (そのあたりには、僧侶の方々のお墓がある平地が2箇所ほどあり、
  それらへ向かう方向の道もあります。
  ですが、それらのお墓に向かう道と、相応和尚塔へつづく道は、
  別の道になっているので、ご注意ください。)
  ↓
・つづら折りの坂を登っていくと、やがて、尾根道に出るので、
 そこをまっすぐ進んでいくと、石段があらわれます。
  ↓
・その石段の上に、
 相応和尚塔(相応廟)と、
 慈鎮和尚塔(慈鎮廟)と、
 遍斅僧都塔(遍斅廟)があります。

もし、坂本方面に行く場合は、上記のYouTube動画のなかに映っている、小川のちかくの道標の三叉路を、東(南東)へ進んでいくことになります。

その道をずっと行くと、最終的に、森本墓地(下記URL参照)の横の道をとおって、滋賀県道47号・伊香立浜大津線の道路に出ることになります。

森本墓地
Googleマップ
https://goo.gl/maps/zeWd3QuNCr56R3PV9

ちなみに、森本墓地までの道の途中に、「相応水」と呼ばれている、相応和尚にゆかりのある湧き水があります(下記URL参照)。

相応水
Googleマップ
(緯度経度:35.064739, 135.859144 のあたり)
https://goo.gl/maps/gzQ9GWaiMGUTxanm7

ご参考までに。m(_ _)m


「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」

たくさんの人が、目を輝かせて生きている社会は、きっと、いい社会なのだろうとおもいます。 https://wisdommingle.com/memorandum-of-intent/