コンサルという仕事は「祈りに立ち会うこと」かもしれない/20代前半で起業した人間が流れ着いたコンサルタントという在り方
初めまして。私は德田行伸と申します。
株式会社MIMIGURIという「人と組織のファシリテーションコンサルティングファーム」でコンサルタントをしています。
大阪在住で、現在31歳です。
簡単にこれまでのキャリアを説明すると、以下のような流れです。
という、一貫性が無い、ちょっと何がしたいのかよく分からない変遷になっています。
今回筆を執ったのは、何を隠そう、現在私が働いているMIMIGURIでは「こんなよく分からないキャリアを送ってきた、多様な人も働いてるんだよ!だからあなたも採用対象!話しましょう!」ということが伝わるための記事を書くためです。
とはいえ、これを読んでいる方には「こんなことを考えて仕事を変えてきたやつがいるのか」ということを、多少は読み物としても楽しんでもらえることを意識して書こうと思います。
👇 こんなことを書いていきます
1. 人生の目的の変遷とその背中を押した絶望
まず、私という人間が、何を考えて人生の生業における意思決定をしてきたか、についてから書こうと思います。
私はその時々で、人生の目的とも言える「このために、生きるという行為をする」というテーマを立ててきました。
それぞれの転換の前には、必ず絶望がありました。
「このために生きる。これ以外のことはいらない」と定めたことが崩れるので、人格のスクラップ・アンド・ビルドが毎回起きているという感じです。
高校のときは、お金の絶望でした。
事業がうまくいかなかった叔母の夫が夜逃げをしたのですが、連帯保証人の印をついていた祖母が約1億3,000万円の借金が背負ってしまったため、
家族の中で唯一の子どもが音楽という「世間的には道楽寄りのこと」をやっている場合ではなくなった、ということがありました。
自分の事業を畳んだときは、「救いたいと思っていた人たちが、別に救われたいと思っていなかった」ということに気づいたときでした。
上記のようなこともあり、私は芸術大学に進み音楽を専攻する望みがなくなり、「お金に左右されない力をつける」ために、お金を稼ぐための学ぶ時間を得るために、奨学金を借りて県立大学の経営学部に進学しました。
20歳から個人事業主として色々仕事を立ち上げ始めてみましたが、一番「これだ!」と自分が粘り強く続けられる確信を持てたのは「芸術系学生の卒業後のキャリアの可能性を拡げること」でした。
昔、美大・芸大生などの卒業後の就職率は半分前後というデータを見ました。自分で食っていけている人が多いかというと、そういうわけでもない。
問題は「自身の人を感動させる技術が、誰に価値があると感じられるか」を知る感度と、そこに届けられる形にする力を磨く機会のなさでした。
その機会づくりに目をつけ、大学生時代に大阪市のビジネスコンペで優勝し、アメリカに行ったりもしていました。
一度メガベンチャーで法人営業を経験してからも、改めてその領域に本腰をいれるために退社して株式会社を立てて進めていきました。
大変烏滸がましい言い方ですが、私は「人の心を感動させる技術を磨いた若者のポテンシャルが埋もれている状況をなんとかしたい、救いたい」と思っていました。
私自身、音楽に打ち込み始めたきっかけは「自殺しようとしたときに、音楽が心を救ってくれたから」であり、こだわりが強い領域だったからです。
ただ、進めても進めても、知恵を出して色々試してみても、事業としてのお金の問題が噛み合わない。
原因には「お金を出したいと思っている人と、そのために必要な価値同士の噛み合わなさ」などがありましたが、根本的には、事業的に対象にしていた芸大生たち自身が「そのことに別に危機感を持っていない。別に救われたいと強く思っていない」という要因があることに気づきました。
「人を感動させる技術が、まだ見ぬコラボレーションを起こし想像できなかったアウトプットが生まれていく仕組みをつくりたい」という目的は全く消えていない(いまの別の形で模索中)ですが、このアプローチには望みがない、と感じて別の道を探し始めました。
その時々でしっかり絶望はしましたが、次の道を見出すときには身体と精神が徐々に入れ替わっていくように、一種の解脱のような「自分の中で捨てられなかった偏執性」から解放されていくような感覚もありました。
総じて、そのときの自分が選びうる「自分の人生が最もドラマチックになる道がどれか」を考え、その時点でのアイデンティティと探究心が重なり合わせて舵を切ってきたのだと思います。
2. 「最も身近な外部者」として関わってきた葛藤
今の人生の目的は「人と社会にとって重要な分岐点に立会いつづけて死ぬ」ことですが、そこに至るまでには色々な会社に関わってきた経緯がありました。
一言で「色々な会社に、色々な立場で関わってきた」と言っても、ほんとに色々やりました。
「これを作ってね」という、いわゆる請負業務をではない、準委任的な「メインの領域はあるが、それ以外も割となんでもやる」という関わりを個人で行ってきた会社さんは、以下のような方たちでした。
本当に脈絡がありません。
(最近の悩みは「分かりやすい専門性がないこと」ですが、こんな紆余曲折してたら生まれるものも生まれません)
私が関わらせていただいた多くの会社は、スタートアップと言われる立ち上げ初期の企業でした。
自分が代表の立場でもあったのでよく分かるのですが、とにかく彼らは無いもの尽くしで、あるのは強烈な熱意とアイデアだけ。
人やつながりなど、手に入るものの順番にはそれぞれ違いがありますが、共通して足りないのは「経営の目線で考える脳みその絶対量」だと思います。
ちょうど同時期に起業していた自分はその目線が強みになり、「それも一緒に考えますよ」「これは私の方でたたきを作りますね」という動きをしていたことを有り難がってもらっていたと思います。
こういう関わり方は、「最も身近な外の人間」としてのものだと思います。
ほぼ身内として扱ってくれる嬉しいことも多いですが、結局その事業の最後の責任を取るのはその人たちという、あくまで外部の人間である、一線があります。
とはいえ「外の人間だから頼みやすいこと、相談しやすいこと」があるのは事実で、重宝もしてくれていました。
ただ、そういう「経営目線で付き合う」関係は、突然終わることもよくあります。特に20代の頃は力不足も大きく、そういうケースが少なくありませんでした。
「役員層の優秀な人が採用できて、これまでお願いした脳みそも内製化できるようになりました!」というケースはむしろ喜ばしい事例で、「主事業の進捗が悪く、德田さんに支払える予算がなくなってきている」というケースや、「いまお願いしているスコープを考えている場合じゃなくなってきた」という事情で一旦お別れになるときは、そういう状態を間接的につくっている・なんとかできたはずのことを見過ごしてきた悔しさを感じていました。
そして同時に、自分は「立ち上げ期の投資・融資金」の上澄みをもらい、それを食いつぶしているだけではないか?」という葛藤が強くなっていきました。
部分的に必要な機能をつくり、実装しても、事業や組織がそれだけで良くなるわけではありません。「自分の仕事は一生懸命した」としても、結局会社としては潰れてしまう。
そういう場面に立ち会うこともあり、勿論自分がちゃんと報酬をもらい続けるためにも、そして一度共鳴した理念を持つ会社が長く続いていくうえでも、自分の関わり方を
・一部分の機能や役割の担保だけではなく、より深く総合的に組織を考え、強く、良くできるように。
・抽象的な戦略論の相談だけでなく、より効果が表れる実践の相談と、他の社員の方たちも巻き込んだ指揮と協働に。
という形に少しずつですが広げていきました。
そして、多くの会社に関わっていくほど、様々な世界・業界の課題と、そこに対して当事者性をもって抱く「こうなって欲しい」という祈りを知り、少しずつ社会に対して働きかけ、変化の兆しを感じていく臨場感をともに経験していました。
私にとってそれはもはや「仕事を楽しくする考え方」や「付加価値を感じ、契約を継続してもらうスタンス」というより、「より良く生きるための在り方」という、人生の中核に近いところに根付いていきました。
ともにそこに立会い、同時に「私なら更にこうなってほしい」という祈りを重ねていくという行為をいつの間にか続けており、それがいつの間にか「コンサルタント」と呼ばれた方ががわかりやすい生業となっていた、というのが正直なところです。
3. 「祈り」に立ち会い、頭から血を流す充実感
私にとって「生きる」という行為は、自分の内面との対話と、社会という外部との対話を繰り返しながら、お互いを少しずつ変化させていく行為だと思うのです。
「すべての人はただ生活という行為を営むだけで、社会を彫刻している」(意訳)ということを表現したヨーゼフ・ボイス氏の「社会彫刻」という考えは、私にとって非常にしっくりきた概念でした。
そしてこの彫刻を行う対象を一つに絞り、ゆっくりと深く深く深めていくことが好きで得意な人もいらっしゃいますが、私はどうも「彫刻対象と、そこに対しての祈りをそのときどきで変化させ、節操なく更新と接続を行い続ける」という営みのほうが性に合っている、と感じており、その在り方もコンサルタントという仕事に合っているようです。
そもそもコンサルタント(Consultant)はラテン語のConsulere(相談する)が語源であり、
日本語の「相談する」の本来の意味も、「問題の解決のために話し合ったり、他人の意見を聞いたりすること。お互いに話し合いをすること」という、只の行為を指した言葉のようです。
そのため「コンサルタント」とは職業・職務というより、「話し合うという行為に重きを置いた在り方」に過ぎないと思うので、結果的に誰かに対して価値と変化を生んでいる人がコンサルタントとして名乗っているのだとすると、「誰と、どのような話し合いをしたいか」という姿勢に、その人のコンサルタントたる在り方のほぼすべてが詰まっている気すらしています。
そう捉えると、私のやりたいこと・在りたい姿は、「人間と社会の在り方に対して一種の批判性を持っている人と、その人がもつ"祈り"の姿とその実現方法についての話したいをしたい」という言葉で表現できると思います。
色々な組織と人が持つ「◯◯にこうなってほしい!」という祈りを知り、その機会に触発されて私自身も祈りを持ち、相手と重ね合わせながらその祈りを実現できるような「群」としての力が発揮されるように、ともに組織をつくっていく。
その祈りが持つ批判的提案性が、よりチャレンジングであれば、そして私個人の価値観に共鳴すればするほどそそる活動になります。
例として、ある「医学生向けの学習領域」で事業を展開している企業様と一緒に、事業ブランドを立ち上げたときの話を書いてみます。
そこの企業では「これまでと比較して、圧倒的な短時間で医師免許獲得のための(医師国家試験の)座学時間を達成できる学習ロジックと教材」を生み出そうとしていました。
ただ、「なぜ勉強時間を短縮させたいのか」という、事業ブランドが持つ祈りは、機能的な優位性とは別で持っているべきです。その企業の代表とブランドオーナーの方と話して表出化したのは、以下のような語りでした。
この話をお聞きしたとき、「他者の死生観と幸福観に寄り添う医師が増えた日本」という未来への分岐は、シンプルにワクワクしました。
「この祈りが実現したら、私たちの社会は少し違うルートに進むだろう」と感じられる祈りに立会い、その実現にともに力を振るえるのは単純に私にとって幸福感が強く、充実感を得られることだなぁと感じています。
それはゲームシナリオの分岐点のようなもので、「この分岐でこっちに進んだ」から、連鎖して未来が結果的に大きく変わっていく、というような感覚です。
様々な分岐点にともに立ち、少しでも「良い」と感じる未来に人と社会が進むような変化を生めるようにしていく。
ほぼ全ての人は実際のところ、この文脈の中で生きるという行為を続けていると思いますが、よりタフな行動と意思決定を求められる「分岐点」に立ちたいかどうか、は好みが分かれるところかもしれません。
これは私の個人的な考えなのですが、たぶん日常的・部分最適的な慣性が働いて流れて様々なな分岐点を通り過ぎていってしまうと、全体として少しずつ悪い方へとしか進まないのでは?と思っているのです。
だから、人や社会という全体にとって重要な分岐点ほど、皆にとって痛く、難しく、変えるための強い力が必要で、力が揃ったとしてもそちら側を選ぶのがとんでもなく大変な行為なのだと思います。
分岐点に直面している人はそういうときこそ、同じ目線で考える誰かを猛烈に欲していて、頭から血が出るほど一緒に悩んで欲しいと考えているはずです。
そこで起きることが一番ドラマチックで、私にとって生きるという充実感が詰まっている現場だと感じており、少なくともいまは病みつきになっています。
以上が、德田行伸の話でございました。
それでは宣伝をさせていただきます。
これからは他のMIMIGURIメンバーも、「#冒険的キャリア」というタグで、記事が書かれていくようです👇
よろしければ、ご自分と近い職種の方の記事をご覧いただき「ここが共感した」「ここが全然違う」などのお声なども聞いてみたいなと思っていますので、ぜひ感想もいただけますと嬉しいです。
また、MIMIGURIという環境で「コンサルタントとして働くことに興味を持った」という方はこちら👇
よければ私も面談に出させていただきます。
「自分にはどんな職種が合ってるかわからないけど、とりあえずMIMIGURIという組織に興味を持った」という方はこちら👇
貴重なお時間をいただいてお読みくださりありがとうございました。改めて感謝申し上げます。