朝美 -act I
「バッハの」と彼は意外にも知っていた。「チェロの無伴奏組曲ですよ、たぶん」
「大バッハか」私は思わず、口に出す。バッハという名前の音楽家は大勢いて、なぜか、一番有名なバッハは、大バッハと呼ばれているらしいが、その呼び名が私は好きだった。
「いいな、これは」
「僕も好きなんですよ」萩原はテーブルの上の伝票をつかんで、ここは僕が払いますよ、と言った。「優雅で、切なくて、そよ風とも嵐ともつかない曲。そんな気がしません?」
その表現はとてもぴたりと来て、私は、ほお、と感心する。-『死