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運命の人


ヒョーロン課題① (2022年4月課題より)
『インテリ男が運命の女に出会って破滅していく物語を反復する2人の巨匠、ウディ・アレンとロマン・ポランスキーについて論じた脱輪の文章を読み、文中から2ヶ所以上引用しつつ、同じ主題を任意の映画作品から2000字以上で取り出せ』


“運命の相手”のイメージは男女で大きく違う。
女性にとっての運命の相手とは、白馬の王子様と表されるように、容姿端麗で地位も名誉も何もかも持っていて、『何不自由なく末長く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。』を実現させてくれる男だが、一方男性は、運命の女という意味のファム・ファタールが男を破滅させる魔性の女の代名詞となっているように、抗いきれぬ不思議な魅力の下に平伏し、地位も名誉も投げ打ちたくなるような女なのだ。
一見全てを捧げたい男(Give) と、全てを得たい女(Take)でバランスが取れているように見えるが、片や全てを手に入れて何不自由なく暮らしたいと考えるのに対し、もう一方は全てを捨てて一緒に地の果てまで堕ちて行きたいと願うのであれば、なるほど男女の恋愛が一筋縄ではいかないのも納得がいく。

なぜ男は、特にインテリ男は、宿命の女に破滅させられてしまうのか?
脱輪さんの言葉を借りれば、『インテリ男にとっての宿命の女とは、自身を鎧う知識と教養の破壊者であり、裸で生きる勇気をもたらしてくれる創造の女神』であり、男が社会を生きる上で”紳士”として求められる重圧を跳ね除け、行儀の良い退屈な日常から逃げ出したいという願望と、全てを捨てて何も持たなくなった自分を受け入れて欲しいと願う心が、宿命の女、ファム・ファタールによる破滅願望として心の隅に巣食っているからではないか。

全てを失うリスクを冒しても好きな人と一緒になりたいと思う男女を描く時、不倫はよく扱われるテーマではないかと思う。
東野圭吾原作の映画「夜明けの街で」の主人公、渡部もまたそんな男の1人だ。

(※ 以下、「夜明けの街で」のネタバレを含みます。)

「夜明けの街で」あらすじ___________
妻と幼い娘との幸せな家庭を持つ40過ぎの会社員 渡部(岸谷五郎)はある夜、友人と行った深夜のバッティングセンターで最近入社したばかりの派遣社員、秋葉(深田恭子)に遭遇し、渡部ら3人は一緒にカラオケで夜を明かす。
その時酔っ払って渡部のジャケットを汚してしまった秋葉は、翌日お詫びにと渡部にジャケットの弁償と食事に誘う。
食事なら、ドライブなら、、と回を重ねるうちに2人はやがて不倫関係になっていく。 関係も深まってきたあるとき、秋葉は15年前に起きた自身の父の愛人の殺人事件と、その時効が近い事を語り始める。
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渡部は元々『不倫をする奴は大バカだ。』と断言していたにも関わらず、迂闊にも不倫という地獄に自ら足を踏み入れてしまったのは、単純に深田恭子さん演じる秋葉が若くて顔も言動も信じられないくらい可愛いからだけでは無いと思う。
秋葉と出会う直前、渡部は友人とこんな会話をしていた。

『俺たちは既に”男”ではない。[亭主]とか[オヤジ]とか[おっさん]とか、そういうものに変わったんだ。世間から見ればただの[オヤジ]。“男”ですらない。
俺たちが “男”に戻るには、風俗に行くしかない。俺たちの人生には心ときめく出会いなんて残されてないんだよ』

そんな小さな絶望感が渡部の頭の片隅にあったからこそ、秋葉がお詫びの食事に誘って来た時、ちょっと気のある素振りをされた時、起こるはずのない “心ときめく出会い” の可能性を期待し、好奇心の赴くままに少しずつ深みへと歩を進めることで、まだ自分は”男”として終わっていないと証明したかったのではないだろうか。

渡部の「不倫をする奴は大バカだ」という姿勢は、自らが不倫を始めた後も変わりはない。『そんなことをする奴は大馬鹿者だ』と自らを非難しながらも、『甘い地獄から逃れようとしても自分の中の悪魔がそれを許さない。』と、この地獄から逃れられないのを内なる悪魔のせいにして、世間一般的に”幸せ“とされる社会的地位や家族の中では満たされない心の渇望と、それら全てを捨てても”男“として終わってはいない。と証明してくれる秋葉という救いの女神への期待から、自ら破滅の道へと歩を進めてしまう。

運命の女、ファム・ファタールと称される女達は、映画などの芸術作品では近寄り難い完璧な強い女と描かれる事もあるが、主に一見バカ女のような見た目をしているが実は知性に溢れていたり欲しいものを思うがまま手に入れられる計算高さを持っている女として描かれる。本作での秋葉も、自身の悪魔に魅入られるまま身勝手な幻想を秋葉に押し付けていただけの渡部とは違い、明確な目的を持って渡部と付き合っていた。秋葉は自らの目的が達成されると『楽しかった。ありがとう!』と軽やかに去っていく。
そこで初めて渡部は現実世界へ戻り、自分が居たのは天国ではなく地獄へと向かう途中にあった小さな桃源郷であり、そこを抜けた先には一生終わらない地獄の底へ向かう暗い一本道が続くだけだと気付くのだ。
自分が秋葉のよき理解者であり、愛し合っていたと勘違いしていた渡部は、あっさりと自分を捨てる事のできた秋葉を一生理解出来ないであろう。そして、楽しかった日々の思い出よりもこの「理解できなさ」により恐らく渡部は秋葉を忘れる事は出来ないだろう。インテリ男にとって「分かららない」は何よりも恐ろしく、そして魅力的なのだ。

映画「毛皮のヴィーナス」のトマも、オーディションに遅れてやって来た露出度の高い服に身を包んだワンダを見るや否やバカ女と決めつけて追い返そうとするが、押しの強さに負けて始めたオーデションで19世紀風の衣装に着替えたワンダから一変して醸し出された淑女の雰囲気、そして完璧なまでに捉えられた原作のキャラクター解釈に、一気にワンダという女に惹き込まれていったのは、ワンダがセクシーなバカ女だからではなく、バカ女だと思って見下していた女から醸し出される予想外の知性に自らの判断能力が否定され、ワンダという女を分析出来なくなった事による「分からなさ」への恐怖と探究心がワンダをより魅力的にみせたのではないかと思う。

ファム・ファタールの姿が絵画などで描かれ始めたのも実は男性の女性に対する「理解のできなさへの恐怖」が根底にあるらしい。というのも、19世紀末に発見された遺跡で古代ギリシャに女性が統治した時代が有ったらしい事が判明し、それまで絶対的であると信じられていた男性中心の家父長的な体制の普遍性が揺らいだこと、時を同じくして優しく慎ましやかで従順であることが求められていた女達が自らの意思を持つようになった事により、それまで自分の支配下にあった女達を完全に理解できなくなった男達の不安が具現化したものが、悪魔的女性像、ファム・ファタールの流行に繋がったと言われている。一方で女達は男性社会からの解放を求め、自らあえてファム・ファタールを演じる事で社会に進出していったのだそうだ。
言うならば、ファム・ファタールへの幻想と恐怖を抱く男を利用して女達は欲しいものを手に入れる術を得たのだ。

しかし、いくらファム・ファタールの魅力が抗い難いものだったとしても、最終的に地獄への1歩を踏み出すのは男本人だ。
バカ女に一目惚れし、その中に知性を垣間見た時にファム・ファタールの底知れぬ魅力に囚われ、自らの足で、意図的に、破滅へと向かう。
何故なら、インテリ男はバカな女に翻弄されるほどバカではないのだから。

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