本格推理小説あるあるが多すぎる
久しぶりに国内の本格推理小説を読み始めている。
常人離れした推理能力を持った高校生、の友人がワトソンであり語り部であるスタンダードな作りの話で、出だしこそ懐かしく読み始めたのだが読み進めていく内に「もうこれ何回も読んだ」みたいな気持ちが沸き上がり始めてしまう事に気付いてしまい、中断している。
・探偵役の高校生は推理能力はあるが社交性に難があり、ワトソン役の友人によるサポートが必要
・見ただけで相手の素性を推理する特技を披露しつつ「全く大したことではない」という事で示される「こいつにはホームズ並みの推理力がありますアピール」
・惚れっぽいワトソン役
・ミステリに詳しいワトソン役
・惚れっぽいワトソン役
・そして無邪気でワンピースの似合う美少女との恋
・そして別れ
・非常時に指揮を取る探偵役とワトソン役
・推理に夢中でデリカシーのない探偵役と、それを指摘するワトソン役
・金持ちの道楽で作られる仕掛けだらけの屋敷
・「通称〇〇館」
こういうの、学生の頃は夢中で読んでいた筈なのだ。
それなのに、今読もうとすると、あれで読んだ、これで読んだ、どこかで見た、そういう過去の記憶のツッコミが止まず、半分も読まないうちにお腹いっぱいになってしまっている。
正直に言えば、作品がありきたりだと言ってしまいたいのだが、それ以上に私が歳を重ねて新鮮な楽しみ方を出来ていないのだろう。
こんなところで加齢を感じるとは思わず、結構ショックを受けている。
この子が多分被害者になるんだろうな……と思ってページをめくってその通りになった時の、何とも言えない気持ち。
かつて、新本格は新しいジャンルとして「人間が描けていない」と批判されることが多かった。その真っ只中を経験したわけではないが、新本格を代表する作家のあとがきやエッセイ、他作品への解説、あるいはファンによるレビューサイトを眺めるだけでも、いかにそうした批判に晒されて来たかは知ることが出来る。
新本格ブームから10年単位で時間の経過した今、私がこうして「どこかでみた様な設定と展開ばかり」と思ってしまう事は、皮肉めいているような気がしてなんとも居たたまれないのである。
きっとこの作品の本質はそこではない筈なのだ。最後まで読み、きちんと向き合わなければならない。
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