恐怖の緩和という贈り物。
今回の内容は、私が勝手に経験則から感じている事であり、スピリチュアル的な話でも宗教勧誘でも何でもない事を、先にお断り申し上げておく。
認知症の方と関わらせて頂くようになり、長いものだが、まだまだ奥が深いと感じる毎日である。
認知症には色々なタイプのものがある。この辺りは、ググればわかる事なのでここでは割愛。
様々な認知症の周辺症状として、短期記憶障害をはじめとして、見えないものが見える、昔と今が混在する、登場人物の構成が混ぜこぜになる事等はある。
しかし、一つ言える事は、決して『人を騙してやろう』だとか、『陥れよう』等という、邪悪な気持ちはそこにはない。周辺症状に混乱してしまい、生きる事に必死になるからではないかと思っている。
相手を信頼してそれなりに冗談を言ったり、試すようにわざと怒らせてみたり、いわゆる相手を「イジる」人は居るかも知れないが、少なくとも愛のある、相手を好きだからこその行動だと思う。
だからこそ、疑い深い人見知りの強い方ほど、俄然やる気が湧くし、周辺症状の強い一般的に困難事例と言われる方ほど、もっとその方を知りたいと感じる。困難だとは思わない。
その方の人生の歩みがそうさせていると感じれば、尚更愛おしい。
何に困っておられるか、何が必要であるか。そして、どのように点の介護である私達訪問介護が、高齢者の生活を線として繋いでいけるか。そればかりを考え、日々ケアにあたっている。
最近思うのが、死に対する恐怖の緩和が認知症ではないか?神様という存在がもしあるとするならば、神様がそうしたのではないか。
と、いう事。姑を見ていて常々感じる。
ちなみに、私は無宗教なので何かの勧誘でもなんでもない。誤解なきよう願いたい。宗教の勉強は、父のせいで様々関わらされてやってきた。
神のような考えを持ち、慈悲を捧げるのも人間だし、憎しみや嫉みを持ち、人を殺めてしまうのも人間。そして、結局宗教も利権が絡む。
それを身をもって知ったからこそ、無宗教なのである。
…若干脱線したが
勿論、認知症は病気であり、出現症状も様々だ。
ただ、あくまでも本人の立場から俯瞰的に見た視点として、認知症は死への恐怖の緩和、重度ならある程度の除去。という役割のような気がしてならないのである。
恐怖の除去や緩和という事なら、混乱はあっても毎日を生きる事に集中できるだろう。絶望する事も数が減るかも知れない。
実際、認知症の方で、物が無くなって困るだとか、あの人は何処へ行った?と探される方は居られても、何故自分が毎日生きてるのか、どうやったら終わる事ができるのかと、強迫観念のように四六時中考える方はそうそう居られない。
そして、皆様が純粋なキラキラした瞳をされている。
何故なのか。
恐怖や憎しみに疲れ、人生を終わらせる事に困っている訳ではなく、生きる為に必要な記憶が失われていき、困っているからではないか。そこには、人と共に生きる(本人は必要な部分を支援してもらいながら、人生の終わりを迎える事)という大前提が含まれている。
生きていれば、嫌な事や逃げたい事、辛い事、簡単には忘れられない事も沢山ある。それを感じながら、生きる事に悩んだり死に対する恐怖であったり、人は他の動物と違って、生きる事に懸命になりにくい生き物かも知れない。
私は、生きる事に疲れて心が病んだ事が2度ある。
元々が、人間好きなのに人間の嫌な所をことごとく見てしまったり、理不尽にぶつけられたり命に関わる酷い目に遭わされたりもして、ほとほとこの世の中には嫌気が差している。厭世感というやつか。殆ど完治に近い状態となった今でも、その気持ちは変わらない。
しかし、諦めたくもない。どうせなら、その厭世感をひっくり返して人生終わりたい。
だからこそ、人の生き様を知りたいし、一緒に共感したい。認知症高齢者であっても、それは勿論可能だという事をこの25年で知る事ができた。
認知症高齢者のおかげで、完全なる人間不信から抜け出せた、と言っても過言ではない。
人生の大先輩に教わっている事は、日々新ただったり、毎日の積み重ねであったり。
『気づき』の連続である。
気づきの先には工夫がある。工夫を施すという事は、自分が、あるいは他の人が便利に生きる事だ。
私達は、死の恐怖の緩和という贈り物を神様から貰った認知症高齢者から、生きるための気づきや気づきから生まれる工夫を学んでいる。
そして、共に生きている。いや、生かされているとしみじみ思う。
そして、これだけデジタルで人との関係性が希薄になった現代にこそ、共に生きるという事を知るためのきっかけとなる内容ではないか、と
そう感じてやまない。
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