太宰を読んで大爆笑
一度読んだ本は再読しないという人が多いと聞くが、自分は少なくとも2回、多いもので100回以上再読している。繰り返し読むことで、理解が深まることに加え、批判的/分析的に読めるようになり、それでこそ新しい発見があるというものだ。つまらん本は読み捨てで結構だが、でもそれでは何もなかったのと同じ、身になるものはほとんどないだろう。とはいえ私の場合、読解力がないために繰り返し読まねばならず、理解できたところですぐに忘れてしまうことに因っている。
そこで太宰の「新釈諸国噺」を再読していた。西鶴の「諸国はなし」を太宰が翻案したものだが、またもや爆笑である。本を読んで笑ったことなど一度もなかったが、こればかりは大爆笑、それほどに滑稽な話題が太宰ならではのユーモアに脚色されている。刊行は昭和20年1月、戦争末期、もはや日本は敗戦が濃厚になっていた時期である。このことはむろん国民に知らされていなかったが、その惨状は推して知るべし、多くの人が傷ついていた。作家本人の心身はすこぶる安定していた時期だというが、それが反映されているように思う。しかし往時にあって、太宰はこの作品でもって国民を励まそうとしたように思われてならない。
題材は「本朝二十不孝」「日本永代蔵」「本朝桜蔭比事」「武道伝来記」「世間胸算用」などさまざまに採られている。なかでも二編「赤い太鼓」「吉野山」は出色の爆笑の渦である。
「赤い太鼓」は、貧乏な一家を助けるべく町内の仕事仲間らが集まってお金を出しあうが、その晩お金が盗まれてしまう。そこでお上である、第三代京都所司代の名判官、板倉重宗に解決を委ねる。公正な裁判で知られ、「非(火)がない」ことから「板倉殿の冷えだるま」と称されていた判官だが、京の話なのに「てやんでぇ、べらぼうめ、ちくしょうめ」の江戸っ子言葉だし笑、お金で悶着する夫婦喧嘩など笑わずにはいられない。そしてラスト驚きの判決。昨今、詐欺や横領が多発しているが、いまこそ板倉殿が必要であろう。
「吉野山」は、女にフラれた身も心も醜い男が、いきおいあまってカタチだけ出家遁世し、山に籠るも俗世が忘れられず、家族に宛てて懺悔的モノローグの手紙を書くという構成。そのいじけたおめおめした様子と自己卑下は、まさに太宰の実人生とも重なり、「人間失格」の葉蔵にも見えてくる。孤独に憧れながらもその孤独にだけは耐えられないいわば太宰的道化な人物だ。しかし、西行や業平や貫之、実朝などの歌を揶揄したような筆致はバカバカしさと飽きれに満ち、思わず吹き出してしまう。
一文一文が長く、ともすれば冗長にもみえるのが太宰文体の特徴だが、しかし歯切れ良い話の流れと教訓めいたオチは短編作家太宰の本領でもあろう。数年後、きっと再読するだろうが、そのときもまた爆笑するだろうか。
ねぇ、太宰さん?