オープンDの音色を追って 53 ~すぎやまこういちの証言・前編~
(約5分で読めます)
前回の記事をマガジン「邦楽記事まとめ」に入れていただきました。
前回は、作曲家で、GAROが所属していた日本コロムビア系の音源制作会社・マッシュルームレーベルの創設者でもある村井邦彦について調べました。
その村井から依頼されてGAROに曲を提供したのがすぎやまこういちです。
近年はゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズの音楽で有名な作曲家ですね。
特撮好き(私)にとっては『帰ってきたウルトラマン』の主題歌。
もっとさかのぼると、グループサウンズに多くの曲を書いています。
ザ・タイガース『花の首飾り』『君だけに愛を』など。
元々はフジテレビで音楽番組『ザ・ヒットパレード』を担当していたディレクターなのですね。
そして、『ザ・ヒットパレード』の司会をしていたのがミッキー・カーティス(後年GAROのレコードのプロデューサーとなる)と、フジテレビのアナウンサーだった私の母でした。
嘘みたいでしょう。
本当なんですよ。
だから、うちの母は「ミッキー」とか「すぎさん」とか気やすく呼んでいました。
母はもう亡くなったのですが、もっと話を聞いておけば良かった。自分でも今頃GAROのファンになるなんて思っていなかったので、遅きに失し過ぎてはいます。
ただ、聞いてみても、GAROには興味がなかったんじゃないかとは思います。
母は布施明ファンだったので。
歌い上げる感じの、ディナーショーをするような歌手が好みでしたので、ならばトミーの親友・松崎しげるもいいんじゃないかと思いますが、そこには反応していませんでした。
ほぼ布施明ひとすじだったのです。
話をすぎやまこういちに戻します。
DVD『HIT SONG MAKERS 栄光のJ-POP伝説』すぎやまこういち編。
この中のインタビューで、すぎやまこういちは『学生街の喫茶店』について、以下のように語っています。
村井邦彦くんが僕んとこへ来て「ねぇ、すぎさん。GAROの曲、ひとつ書いてよ」なんて。
「いいよ」。もう、気軽に引き受けてやりました。
それで、曲を作って、レッスンに行ったのね。
GAROのメンバーは、憧れはアメリカ。アメリカでも、大体、ああいう人たちの憧れるアメリカってのは、バート・バカラックやヘンリー・マンシーニではなくて、中流以上ではなくて、アメリカ社会の最下層の部分に憧れるんですねなぜか。ファッションといい音楽といい。
で、僕が書いて行った『学生街の喫茶店』というのは、リズムでいうとガヴォットだ。
これはね、まるで受け入れないねこれは。
アメリカの匂いゼロ。
やる気まったくなし。
で、レッスンに行ったら、譜面は見て来てない。何もやってない。
しょうがねえからその場で見て、ここはこうで、こうで。ちょっと教えて。
レッスン途中でいやになって、マネージャーと二人で「帰ろう」ってケツまくって帰って来ちゃった。
そのまんまほっぽらかしだったんですよ。
それが「でもやっぱりすぎさんに頼んだのをレコードにしないわけにはいかない」。
村井くんも困ったらしくて、一生懸命レッスンしたりなんかして教えて、アレンジも「もう、俺、やらん!」って言って、大野克夫くんかなんかに頼んで。
ま、大体、雰囲気的にまた奇妙なアレンジを、彼は面白いのを作ってくれて。
いつの間にかレコーディングして。
すぎやまこういちの知らない間にレコーディングされたという『学生街の喫茶店』。
発売翌年、1973年のことを、ボーカルはこう言っています。
『学生街の喫茶店』は、すぎやまこういちの構想ではトミーのリードボーカルで、となっていたようですが、ミッキー・カーティスは最初から「ボーカルが歌ってね」と言っていたそうです。
『学生街の喫茶店』には付随するエピソードが多いので、後編に続きます。
それでは皆様また来週(←昭和のテレビ司会者風に)。
(つづく)
(文中敬称略)
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