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担任の小平せんせい

三、四年の担任だった小平先生の印象は今でも鮮烈だ。

小平先生は私たち生徒に、人間の善性について説き、自ら行動して見せ、それを植え付けた人だ(根付かなかった生徒もきっといたけれど)

担任になった当初はギョッとすることが多かった。

小平先生は配膳された給食を前に下を向いて瞼をふんわりと閉じ、
「父よ」からはじまる言葉で欠かさずお祈りをしていた。
私たちは小平先生がその呪文のような文言を一通り言い終えるまで、
不思議そうに先生を見つめる者もいれば、一刻も早く給食を食べたくて先割れスプーンを握りしめる者もいれば、同じように下を向き、先生を見ないようにしている者もいて、そうして先生がいつもの先生に戻るのを待った。

今思えば、女性特有のしんどい日だったのだろうと思うが、
小平先生は授業の途中で突然、階段一段分ほど高くなった教壇の上に仰向けになって胸の前で手を組み、今度はぎゅっと瞼を閉じて、今そこにある痛みを逃がすようじっと横たわることがたびたびあった。
それによって勉強が遅れた記憶はないので、
私たちはその間ノートをとったり、配られたプリントの問題を解いていたのだろう。床に横になる先生を目の当たりにするのは、後にも先にも小平先生だけだった。

三年生の教室の教壇の上なんて、チョークの粉やほこりや上履きが連れてきた砂でひどく汚れていて、そんなところに横になったら、小平先生の肩の上でぽわんと弾むソバージュの髪や先生によく似合う淡い色の服が汚れてしまう、と思うだろう。でもそれはない。
私たちは小平先生から掃除を徹底的に叩き込まれていたのだ。
何をどう言われてそんなにやる気になれたのか肝心なところを覚えておらず参考にならなくて申し訳ないのだけれど、
黒板はいつも新品のような深い緑色をしていて、
教室の床にはゴミひとつ落ちておらず、
トイレは裸足で歩けるほど綺麗だった。嘘じゃない。
無理やり掃除させられていたわけでもない。それも嘘じゃない。

四年生はとにかく掃除に夢中になった。
どこもかしこも綺麗にしたくて、放課後、クラスメイトと小学校の周りの団地中を歩いて道端に落ちているゴミを拾った。
次第に集めたゴミをカウントするようになり、
三千個集まった折にはお楽しみ会をした。
そんなことを続けていたら、
今度は小平先生も寄付しているというユニセフに私たちもお小遣いを少しずつ集めて寄付をし始めた。
赤い羽根も緑の羽根も、校門のそばで必死に募金を呼び掛けた。
なぜそこまで一生懸命だったのだろう。

褒められたかったかと言われれば褒められたかったのだろうし、
それしかすることがなかったと言われればそれしかすることがなかった。

我が家の子供たちは母である私に「暇だ暇だ」と言う。
当時の私も毎日暇を持て余していたに違いなくて、
車で行くような場所にも一輪車で行ってしまう始末だった。
暇だけど、暇を楽しんでいた。
暇だからできることをわざわざしていたのだ。

私の中の小平先生の記憶は
「私はアフリカの10歳の女の子のお母さんになりました。会ったことも顔も見たこともないけれど、離れていても私はその子のお母さんです」
という言葉をクラスのみんなに話している姿が最後だ。

小平先生は当時できっと三十代だったと思うから、先生はもう小学校教諭をしていないだろう。

小平先生。
あの三、四年生の日々は間違いなく私に善性を植え付けました。
今でいう推しに没頭するような、
もっというと小平教にどはまりしていたわけだけど、
それがよかったです。

誰かのことを書こうとすると、
好きや感謝が少し曲がって見えてしまって、
だからやっぱり小説の中の人にしてしまったほうがいい、なんて思う。

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