存在証明としてつづるネガティブな日々
つらさを乗り越える意味とは?
なんかAIが構成を考えてくれたので、この通り書いてみる。
わたしにとっては基本的に生きてることがつらいので、乗り越えたところでつぎのつらいことがやってくる。
常につらさの中にいるイメージ。
それでも、生きる。
とはいっても、周囲に悪い人間がいるわけではないし(いたけど離れられたし)、家にいても文句は言われないし(口を開けば批判してくる家族はいるけれど。そーゆー人間なんだ、と割り切れずにいるのでこれもつらい)、一応しごとはあるし、人に会うときはそれなりに小綺麗にしてメイクもするし、笑顔で接するので、こんなんで「生きるのがつらい」なんて、生活の中では口にして言えない。
恵まれているとは思う。
口には出せないけれど、ずーっと小さなつらさの中で生きている、乗り越えるとかそういうのではない、わたしの性質としてつらさを抱えつづけるしかできない。
とか、そんな話。
生きることの喜びを感じさせる瞬間とは?
生きる喜びなんて、みんなどのくらいの頻度で感じているんだろう?
こどもがいたりすると、わりと毎日小さく生きてる喜びとかありそうだけど、友人たちを見ているとそれなりに大変そうなので、毎日ということもないのだろうか。
そもそも、生きることの喜びって必要なんだろうか?
いいなぁと思う棚を自分のお金で買って、
そこに素敵だなと思った花器をふたつくらい置いて、ものすごく気が向いたときには花を挿す。
生活の中の視界にそれが入ってくることは、幸せだなぁと思う。
当たり前の景色に、自分の好きなものがあるのはいい。
だからと言って、これが生きる喜びぞ!!!!!と毎日感じるわけではない。きっとわたしは生きる喜びを感じたことがないのだろう。
でも、この棚のあるわたしの日常の視界は気に入っている。
人間の強さとは何だろう?
忘れることだと思う。
わたしは、ネチネチとあのとき言われた言葉が嫌だった、ああ言われるということは彼女はわたしのことをこう思っているんだろう、そんな人とどうやってうまくやっていけばいいんだろう、そういえばあの時はこう言われたなぁ、無理すぎる、仕事だから仕方ないけど言ってしまえば嫌い、ふつーに友だちにとかなりたくない、向こうもわたしみたいのとは友だちになりたくないだろうけど、それにしたって何であんなに偉そうな態度を取れるんだろう?????
……なんてことをネチネチ言われた瞬間以外にも思ったりしているし、彼女がどうしてああいう人間になってしまったのか、そういう人間にはどんな特性があるのか、みたいなことまでネットで検索したりしてしまっていて、全然忘れられない。
(そのときは、この記事にたどり着いてひとまず「ああ馬鹿の山にいるんだなぁかわいそうに」と思って一旦そこで切り上げた。
信ぴょう性がある記事なのかは知らない。)
なので、忘れる、流す、気持ちを切り替える、ができるひとは強いなぁと思う。
つらさを乗り越えるための心の持ち方とは?
そんなことが分かっていたら、こんなの書いていない。
社会が解決すべき人のつらさはもっと深刻なものだろうし、それはもちろん社会として解決していってほしいので、わたしのような並の生活は送れているような人間のつらさに乗り越えるも何もないんじゃないかと思う。
人生、そういうもんだよ、というだけ。
人生のスパイスじゃん、くらいに思えたらいいのかもしれない。
あいにく、何も起きない毎日に、あれこれ考えたり、見たり、読んだりするだけでわりと満足な質なので、そんなスパイスいらん。
何もなくても急に悲しくなったりするので、何か(人からしたら些細な、ほんとうに些細なんだろうこと) あると、ああここから飛んだら終われるなぁとしょっちゅう自宅のマンションの通路を歩いていて思う。
こういう人間は3階以上高いとこに住んじゃいけないと思う。
でも、こういう思考になる人、きっとわたし以外にもいるよね?
一応、行くべきとこには行っている。
そこでもニコニコ話して、最低限のわかってもらえそうなつらさを話す程度なので、病院をうまく使えてないなぁとも思う。
声をあげるほどではないけどわたしの中に確かにあるつらさを抱えて、今日も、明日も、あさっても生きていく。
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