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まちとか場所とか、コミュニティとか。

石川県小松市に家族で移住してきてから2年半くらいになる。この2年半、暮らしながら同じ言葉を話していても、少しだけ意味合いが違うのではないか、と思いながら解釈のズレみたいなものを抱えて会話をしてきた。少しずつこちらの歴史や文化を知るにつれ、そのズレ幅は小さくなってきたのだけれど、そのうちのひとつの言葉が「町」である。

ちょっと前に、こんなツイートをしたのだけれど、ツイートだけでは何か話し足りないことがある気がするので今日はその周辺について書いてみることにする。

小松に来る少し前に、夫と来る移住のために1カ月に1回ほどは東京から小松を訪れていた期間があった。その頃から少しずつ気づき始めたのが「◯◯町」という住所の多さである。小松市の中にあるのだから、いわゆる市区町村の「町」ではない。生まれも育ちも神奈川県川崎市のわたしにとって、「町」と書いてあればその概ねのイメージは行政区の「町」である。そもそも昭和47年から政令指定都市となった川崎市は、わたしが生まれた頃にはすでに7つの区に区切られていたし、川崎市◯◯区という住所が全ての住所についていて、川崎市◯◯町という住所は存在しない。

しかし小松市は違う。市内は町だらけなのだ。特に駅前の旧市街とも言える地域は、京都の河原町や丸太町あたりのように、通り一本で町を構成していて、お祭りや日々のゴミ出し場の管理などいわゆる町内会活動もその町ごとにやっている。ひとつの町に数十軒とかしかないところもあっていろいろ当番回るの早すぎじゃない?と思うけど、まあその話はまたいつか。

そうやって少しずつこの地域の”町”というものが持つ性質がわかってきた頃に、わたしたちは移住し、駅前や街中からは4キロほど離れた小松空港の近くに住み始めた。それから今に至るまで、2年半くらいが経ったのだけれど、その間に気がついたのが、空港の周りには空港を作るときに立退となって町ごと集団移転した町がいくつもあるということだった。そもそも、”町”というものは行政区や自治区のひとつであって、土地、つまりある特定の場所に紐づいたものなのだと思っていた。だからこそ、わたしたちは小松市◯◯町というそこにある町に引っ越してきて住み始めたし、何かそこに住めなくなる理由があれば、それが自己都合であろうと空港建設のような環境要因であろうと別の町に引っ越していくだけなのだと思っていたのだから、ちょっとしたカルチャーショックだった。

確かに考えてみれば、2011年3月11日の東日本大震災では東北の海岸沿いの多くの町が津波に飲まれてしまい、住民たちは移転を余儀なくされた。その際よくテレビでは町の集団移転についての話がニュースなどに出ていた。でも、それは、ひとつの町どころか、いくつもの県にまたがる複数のエリアがあんなに大きな津波によって飲み込まれてしまうような特殊な例の場合だからなのだと、頭のどこかでそう理解していたのだ。

でも、どうやらそれは違った。

小松では空港移転以外にも昔の話を聞くと、この町は昔どこそこにあったらしい、みんなで移転してきたらしい、などという話を聞くことがときどきある。どうも、長い歴史の中でみればそう珍しいことでもないらしい。昔は駅前(というかお城周辺)あたりの旧市街エリア以外の郊外は住んでいるひとが少なく平野が広がっていたから、集団で移転できる先が確保しやすかったとかも理由のひとつかもしれない。

わたしが抱いた「町」という言葉が持つ感覚のズレというか違和感について夫にひとしきり話すと、夫はそうか!、という顔をしながら「町はね、コミュニティ、コミュニティなんだよ。」と言った(自分でも納得しながら2回繰り返していた)。

確かに、今でも小松の町は町内会活動が盛んだ。それは、町内で協力しあって暮らすためのシステムというだけでなく、みんな田舎臭くて嫌だ面倒だと言いながらも、どこか自分の町に誇りを持っているし、好きなのだと思う。なんなら”小松市”という現代の行政区そのものに愛着がなくても、自分の町にはあるというひとは多いだろう。もしかしたらそれは潜在的な愛着であって、自分では気づいていないひともいるかもしれない。しかしそれは多分、現代の行政区としてのエリアなどが決まる前からそこに存在した、アイデンティティでありルーツであり歴史なのだ。もし仮にそこに住み続けられない何かが発生したら、土地を置いて中身だけでも移動しよう、と思えるくらい、必ずしもその土地を最優先にしない、人間どうしの関係性そのものなのかもしれない。

そう思うと、地元のひとですら田舎くさい、面倒くさい、と言っていた「町」に、一周回ってすごく今の時代にあっている新しさすら感じた。

もちろん、好きなひと、話の合うひと、同じような価値観を持ったひととばかり付き合いたがる今の風潮と、生まれ育ってしまったら嫌なひととも付き合わなければならない従来からの「町」文化は、異なる点も多々あるし、より現代にフィットしたあり方は探る必要があるのかもしれない。でも、人々が集まって構成された各町には各町の気質やカラー、もう少し広くみれば旧市街には旧市街の、海に近いエリアには海に近い町の、山の方は山の町の、それぞれの文化や特色がある。それもまた、ひとが集まって築いているのだ。

ある意味形や場所に囚われている気がしてならなかった「町」の本質は、もう少し目に見えない、”コミュニティ”なのではないだろうか。

小松に来たばかりのころ、わたしはどこへ行ってもよそ者感漂うらしく、初対面にも関わらず「出身はどちらの方?」とよく聞かれた(今でも聞かれるけど)。その度に、移住者でできた市のような川崎市を思っては、誰がどこの出身かなんて深く仲良くなるまでは誰にも聞いたことがなかったな…なんて思ったものだった。親子三代川崎生まれ川崎育ちなんてひとはクラスの中でも数パーセント、高校に行けばさらに広範囲のひとと混ざり合い、土地柄中国人や韓国人の友達もできた。だからこそ、見渡す限り地元出身者にばかり出会う小松は川崎に比べとても多様性の低い地域だと感じていた。

しかし、引っ越した直後よりも少しだけ小松を深く知った今、ある意味「町」という多様なコミュニティが共存している小松もまた、違った意味で多様なのではないか、とも思う。ちょっと面倒で田舎くさく強固で排他的なコミュニティがあるからこそ、入り混じって同化することなく多様性が担保される、というようなことは自然界における生態系の中でも同じようなことが言える。

わたしが小松と比べ多様に感じていた川崎は、どうだったろうか。考えてみると、特にわたしの実家がある北部の住宅街は、かつて川崎に本社を置いた大企業に勤めていたひとたちが次々と土地を分譲されて建てた家が多く、その多くが地方から出てきて高度経済成長期に日本を支えたサラリーマンだった。多くの家庭が出身こそ違えど、同じような広さの土地に家を建て、ホームドラマに出てくるような核家族世帯、母親は専業主婦…といったような家族。現在はその多くが70代から80代でそういう家が同じ自治会(川崎は町という呼び方はしてない)内だけで400世帯近くにのぼるし、隣の自治会もそのまた隣の自治会も、ほぼ状況は同じだ。どちらのほうが良いとか悪いとかいう話ではもちろんないが、いかに自分はこの国の一端しか見えてなかったのか、と思う。

近くに移住されたらしい、舘そらみ(@_sorami)さんもそれに近からずとも遠からぬ話をツイートしていてなんだか深く共感した。

よく最近、まちづくり的な文脈で、ひらがなで書いた「まち」を見かけることが増えた。このひらがなの「まち」には、わたしが小松に来て揺さぶれた「町」というものの概念と、小松の人が「町」に持つアイデンティティ的ななにかとか、「町」とは土地に紐づかないコミュニティなのではないかみたいなわたしの中で最近生まれた仮説を、ぬるっとまとめてくれているのかもしれない。

わたしは別に移住いいよ!みたいな安易な推進派でもなければ、小松だって夫の出身地でなければ来なかったわけだけれど、いやしかし、住む場所を変えるって、いくつになっても新たな発見と驚きと学びを与えてくれる。

それでは今日はこの辺で。

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移住して感じた文化や暮らし、おいしいものの話をしています。



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