誰もが誰にでもなり得る。だからこわい。(『マチネの終わりに』平野啓一郎)

読後感をもうひとつ。

誰もが誰にでもなり得る。だからこわい。主役のふたりとその周辺、登場人物の誰もに、誰もがなり得る。早苗は「脇役」を買って出ているようで、実のところ小説の「主人公」洋子あっての主人公である。それぞれの関係には、傷、というほどはっきりと残酷な様相を呈してはいないものの、まるで砂の小山のような蟠り(わだかまり)が存在している。決して消し去ることが出来ない蟠り。蟠りの小山がある時、引き返すか、見ないふりをするか、砂山を蹴散らすか、風化するのを待つのか…。小山を微妙に避けながら続けることも出来よう。しかし小山はいつまでも依然としてそこに存在する。そして登場人物の全員が、おそらく、その事を知っている。

読後、喜怒哀楽好悪を感ずるだろう。そういう意味で小説としての成功に拍手をおくりたい。『未来は常に過去を変えている』という文言の配置もちょうど良い。そして、誰もが誰にでもなり得る、ということに気づくとこわくなる。

平野啓一郎の作品を、また読んでみたい。
#マチネの終わりに

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