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人新世の『資本論』読書感想

昔、エコロジーってなんだかうさんくさかった。偽善の匂い、というか、エコロジーって言いながら省エネ家電買わされるようなイメージだった。ゴミの分別にすごいうるさいけどあんまり環境の役にたってなかったりしてた。とにかくエコロジーのイメージが悪かったんだけど、そうこうしてるうちにグレタ・トゥーンベリさん登場。すごいしっかりした子だな、と思って横目で見てたら、どうも近代資本主義で環境破壊されててもうとっくに人類滅亡の危機だったらしく、シャレにならんらしい。私、ぼんやりした大人で本当にすみません。

この本、惨事便乗型資本主義って言葉が何度も繰り返し出てくる。新自由主義シカゴ学派のショックドクトリンのことだ。この数年、ずっとショックドクトリン追いかけてきた身としては、ベストセラーになるような左派系書籍に何度も惨事便乗型資本主義が出て来てなんだかほっとしている。だってたぶんその辺陰謀論だと思われてるじゃん?そういうことって多い。

環境破壊も惨事便乗型資本主義(ショックドクトリン)も新自由主義も、今はまだ、マジョリティに認識すらされてない。その辺を認識してるいわゆるパイオニアたちが、いっせいに「ポスト資本主義どうする?」っていう話をしてる。その本だ。

宇沢弘文はシカゴ大卒で新自由主義を発明したミルトン・フリードマンと同じ大学で、だからこそ批判したんだって『靖国史観』の著者の小島毅さんがYoutubeで言ってた。この本も、宇沢弘文の社会的共通資本の話に似てる。(ちゃんと読んだことないけど)

この数年、自民党はTPP、日米FTA、日英FTA、RCEPなど自由貿易加盟に加えて水道事業民営化・種苗法改悪・漁業法改悪などと新自由主義的な政策が多くてすっかり社会的共通資本を売り払ってしまったこと、本当に忸怩たる思いで見てましたよ。システムによる生きにくさは時間がたってそれが当たり前になればなるほどに見えなくなっていく。よほど訓練された人でなければ、生きにくさの根源が見えない。フェミニズムもずっとそうだったでしょ?女性差別というのは、どれほど女性差別的な文化の中で生きていても、なんの訓練もされてないひとには見えないものだ。近代資本主義は奴隷貿易や植民地主義を孕み、マトリョーシカのごとく1%の上が99%の下を支配していく。

それから、コモンズという左派系の自治コミュニティの話をしてるんだけど、社会主義や共産主義とはまた違うシステムらしい。人が生きるための。近代資本主義があまりにも貧困格差を広げるうえに環境も人類滅亡レベルにぶっ壊すから、なんとかそれ以外のシステムはないものか、と模索が始まってるのね。

かすかに希望が見える本だ。次のシステムの雛型が見えた。しかし、かすかだ。その前に我々はおそらく、きちんと絶望せねばならぬのだと思う。多くのひとは絶望が嫌で、その前に必死になって希望を探して絶望から目を背けてしまうけれど、それをやればやるほどに絶望の底は深まっていく。地に足をつけるために、直視せねばならないことがまだ他にもある。

ただ、私も読んだときにやはりフェミニズムの視点が無くて危ういな、とは思ってた。でももうここまで来たら、どれほど女性にとって暴力構造があろうともコミュニティに入らなければ後がないだろう、とも思っていた。システムのことを考えれば考えるほどに、「社会システムは良いとこどりが出来ない」という宮台真司の言葉を思い出してしまう。フレイザーは駄々っ子のようにその大人な分別を攻撃していたけど。私にはわからないな。そりゃあ、出来たらいいけど。


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