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メタファー

ゾンビドラマ観てるんですよーここんとこ。『ウォーキングデッド』なんですけど。

というわけでまた『ウォーキングデッド』のネタバレ注意。



ゾンビはアメリカが先住民虐殺した罪悪感の表象、みたいなのを読んだことがあるって以前言ってたけど、もう、『ウォーキングデッド』じたい戦争のトラウマの表象っていうか、ゾンビは兵器かなにかで、観てるとだんだん、ゾンビが怖くなくなっていくのだ。ゾンビが怖いのではなくて、人間が一番怖い。ゾンビなんかただそういう習性の獣ってかんじだけど、人間はもっと残虐なんだ。

物語にはレイプや虐殺のしあい、カニバリズムも多く、戦場が続いていくうえでの狂気や無駄死にも多くて胸が塞がれる。しかし私にとっては、完全に非日常な状態なのに、日常が普通に続いているふりをするドラマのほうが、今は胸が塞がれる。まあ、そういう私の個性というか、好み、なんだろうけど。昔からそうで、すごくつらいときに、優しくて甘い物語を読むと癒される、ということがまったく無く、逆に、似たようなつらい状況で、主人公がどう乗り越えるのか。どういう心持でいたらいいのか、のヒントになるようなドラマが観たい。だから今はゾンビドラマなのだ。わりと元気なときのほうが、甘くて優しい物語は楽しめる。『キム秘書はいったいなぜ?』みたいなやつ。つらいときはむしろ『進撃の巨人』。

さらに、『ウォーキングデッド』は家父長制もすごい考えさせられる。家父長制の狂気、というか。

総督が7歳ぐらいの娘を溺愛してて、ゾンビになっても治そうと必死になるほどに優しい父親なんだ。しかし他人には過剰に残虐。ゾンビの娘が殺されてからも、他に似たような年齢の女の子を溺愛して守ろうとする。新しい妻子=家族を守るために、他のキャンプの連中を大虐殺しようとするんだけど、それが裏目にでて負け、本人も妻にとどめを刺されてしまう。

主人公のリックもそうだ。家族を守ろうとして狂っていく。息子をレイプから守るために、敵の首を食いちぎる。リックは自分の中の獣性というか、悪魔性に戸惑う。家族を守ろうとする慈愛深い家長としての自分と、残虐な悪魔としての自分の間を、振り子のように揺れ動く。まるで、アングロサクソンの16世紀からの奴隷貿易と侵略戦争の歴史を、心理面で辿っているかのようなドラマなんだ。

リベラルというのはアングロサクソンの思想なんだけど、あれは、父権の善性という一面でしかないんだ。しかし必ず、悪魔性とセットになっているものなの。日本人ってああいう二重人格的な表出のしかたはあんまりしない。悪魔の自分を完全に分離して投影して攻撃、みたいな手順を踏みやすいんだけど、あれが大事なのよ。あの心理の動きがすごく大事なの。ものすごい綺麗ごとを言うから、絶対あの人たちはいい人に違いない。正義しか行わないのだ、と日本人は信じがちなんだけど、それは違う。あの善性と悪魔性はセットでやってくる。一種の心の病なんだろうな、あれ。アングロサクソン文化は、二重人格的な文化なの。善性だけを信じてはいけないの。

日本人の場合はむしろ綺麗に欠落するんではないか。見なかったことにしてしまう。記憶から抹消。みたいになるので、欠落を探すと逆に見つけやすい。なにがすっぽり抜け落ちているのか。

『ウォーキングデッド』はアメリカ文化的にも名作ドラマだ。奥が深い。ゾンビドラマ。


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