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溶けない飴

家父長制には独特な抑圧の匂いがある。

新自由主義にもある。あれはキツイ家父長制だ。身をよじって逃げたくなるような苦しさがあるのだ。おかげさまで、私はいつも逃げ腰。

たとえば若いころ、女だからコイバナが好き、恋をしたいのが当たり前、とか、恋人のいない女性は寂しくてかわいそう、結婚したら勝ち組、できなかったら行き遅れ、みたいな思想に、いつも地団太を踏むような嫌悪感があった。そこから解放されても、そういう価値観のひとたちにはそうやってみられるんだろうな、そうやって勝った負けたと優劣つけられるのだろう、みたいな、そういう諦観も含めて。

新自由主義は、稼いでいれば正義、勝ち組、幸福、だ。稼いでなかったら幸福になってはいけないのか。

フェミニズムの掲示板ではよく、直感でなんかおかしいと思ったらそこでは考えずによく覚えておけ、って言われた。

その時は社会通念に洗脳されたままで考えるから、答えが社会通念に侵されてることが多く=こうあるべきだ論になってしまいがちで、だから、答えを出さないまま口の中で転がして持っておくんだよ。長期間ね。そのうち、ぴったりの言葉が溜まってくる。違和感の正体はなにか。なぜ自分は苦しかったのか。

フェミニズムはそんなふうに私の心の支えであり、生きる指針でもあった。今もだ。私を助けてくれる思想だ。レイプから女性を守らねばならないし、女性の平均賃金も上げて、女性の議員や重役を半分ぐらいまで増やさないといけない。でも、その前にやることは、こうして、考えをずっと長いこと口の中で転がすことなんだよ。溶けない飴みたいに。

だからこそ、フェミニズムがネオリベラリズムと溶けてるとギョッとしてしまう。

家父長制の匂い。

マチズモの匂い。


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