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うまく言葉にならない。それはいつもそうなんだけど。

私は20代の半ばにフェミニズムを知ってから、しばらくのめり込んでいた。20年以上前の話なので、日本に新自由主義が本腰入れて入り始めた頃だ。勝間和代さんの書籍をたくさん読んで、日経WOMAN買って、手帳術が流行ってて、その頃から手帳大好きだ。今も好き。

勝間和代さんの書籍は処女作の『インディでいこう!』からずっと読んでて、当時働く母親は「家族のためにならない。特に、子供のためにならない」と周囲から大変な抑圧を受けていたけれど、これから日本の政治は女性を活用したがっているから、私たちのようなワーキングマザーとその予備軍には追い風、という内容が繰り返されており、その通りだった。上野千鶴子教授は、勝間和代さんのことを、「あの人はフェミニストではなく、新自由主義者」と言った。確かにそうだ。

フェミニストと新自由主義者は違う。勝間和代さんが出はじめたとき、フェミニズムに似てるけど、これは、なんか違う、と思った。共働き結婚と恋愛を肯定しているのと、容色も武器に使え、と言ってくるから。今思うと、最新鋭の家電とデバイスと、金の力で力づくで家事をやりつつ、仕事も目一杯する、というかなりの暴論だったんだけど、それでも、我々世代は、結婚出産か仕事かを選ばなければならない状況から抜け出せる、唯一の希望、みたいな感じで勝間和代さんを迎えてたのよね。

あの頃の私は、新自由主義がいまいち認識できていなかった。

今は認識できている。

新自由主義は、人を消耗品にしてしまう。人材、という言葉の、材は、商品のような「物」の意味だ。作品はコンテンツ。売れる、なにか、だ。最新の家電と処理能力の速いデバイスで仕事をすることにすっかり慣れたけれど、家族は物じゃねえ。子供も、物ではないのだ。心と体があって生育と成長がある。人の心を安定して健全に育て、社会的な大人として成熟させ、困難に立ち向かえるだけの気力のある状態に保っておくにあたって、新自由主義はあまりにも、浅薄で貧しい気がしてならない。

と言うのを、宮田登の『女の霊力と家の神』、という書籍を読みつつ、考えていた。宮田登は著名な民俗学者。

うまく言えないんだけど、ある種、女性的な勘の良さ、みたいなのが、この混乱期を生きる力、になっていて、その勘の良さは新自由主義では育めないのでは無いかな。みたいな気になるのだ。もっと豊穣な、文化的な何かが必要なのではないか。

前近代の文化は、人間が生きるための勘の良さを、最大限に育て、発揮するにはどうしたらいいのか、の、ヒントになっている気がしてならない。

勘の良さや生きる力みたいに、数値化できないもんなんか、存在しない、非科学的、と馬鹿にするのが、近代というものであり、近代を象徴する新自由主義だった。

そのアンチが、妹の力。

フェミニズムが取り沙汰されて久しいけれど、今の時代に本当に必要なのは、ネオリベラリズムから発祥するウーマンパワーではなくて、宮田登の言う、妹の力の、勘の良さだと思うのだ。欺瞞を嗅ぎ分ける嗅覚みたいなもの。

新自由主義に呑み込まれていない、もっと原初の女の。

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