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少女漫画には他者がいない、というが、特になんらかのPTSDがきつすぎると、他者がいないな、というかんじになる。それはそれでいいのだろうが。苦しくて、もがいていて、必死で箱庭を作ってなんとか自分を保とうとしているひとの箱庭を覗き込んでいるような羽目になる。同じ傷を抱えた人間は、その箱庭で作者と一緒に歩み、一緒に癒されるのだろう。それがサブカルの、ひとつの効能であった。

私は母親になったときに、大人になってしまったのだな。

みたいなことを考えながら、他者の箱庭を見ていた。

子供を産んだ瞬間に大人になってしまった。子供を守ること以外になにも考えられなくなってしまった。今もそうだ。

それでも物語はいまだに大好きなんだけれども。十二国記シリーズに出てくる、麒麟を育て守る使い魔がいるんだけど、アレだな。麒麟の子を守る本能しかない獣だ。

そんなかんじで、物語とは、ときどきあられもない真実を言い当てる。

私は獣だけど、物語の専門家だ。物語は幾層にもなっていて、一般のひとが読めない、深いレイヤーまで読む。個人のPTSDから民族のPTSDまで。PTSDっていうのは、固着だ。カタがつくまでそこに精神がとどまってしまう。固着がほどけると、そこにはなにもなく、他の、いま必要なところにエネルギーが使えるのだ。

日本民族の物語は、固着が多すぎて身動きがとれない。カタがつかない。固着に気が付いて、カタをつけることができる個人だけが、先に行けるだろうが。カタをつけなければ、先には行けない。新しい血が入って、他民族に呑み込まれて、忘れ去られていくだろう。無様だと思うけどしかたがない。

アングロサクソンの侵略に、民族ごと耐えられなかった。耐えられる我の強さも無かった。でもそんな民族、他にもたくさんあったんだろうしね。たいしたことではないのかも。私の代であらゆることが終わっても、それでいい。

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