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なるべく幸福でいる、というのがいいんではないか。

なんだか真逆のことのように思えるんだけど。それで社会が善くなるかどうかはわからん、というか、ならんのだろうが。

実際、幸福なのだ。私はなにも困っていない。家庭も仕事もそこそこだ。他者がびっくりするほど成功はしてないけど、かといって困っているわけではない。お金もなんとかなっている。親戚も特に今はトラブルもない。そもそも好きな仕事に就いているから、毎日楽しいし。喫茶店でノマドをするたびに、ありがたい仕事に就いたな、と思っている。

友達もそれなりに居るしなあー。趣味もあるし。毎日Webtoon読んでいる。仕事というより趣味で。酒もたばこも男もパチンコもやらない。家でPCか本ばっかり読んでいるので、トラブルにあんまり巻き込まれないタイプなのだ。

かといって現実逃避しているわけではないの。

政治経済とは常に向き合っている。

なにかしらの面倒ごとときちんと向き合えている、というのは、気力がまだ、在る、ということだ。きちんとした気力、体力を持っている。気力体力が無いひとは、その手のちょっと遠い面倒ごとにからっきしに向き合えないから、面倒ごとは直視しようとせず、深く考えずに、逸らして受け取ろうとして失敗し、それが長い目でみて、人生に禍根を残す。でも、それを、いけない、と言う権利は私には無いのだ。他人には他人の人生があるからだ。それを言いたくなっている、私が悪いのだ。

気力体力を残すには、日々の生活改善が必要だし、仕事のしかた、たとえばそれなりに勉強して未来への投資を続けていかないといけない。10年単位で、だ。友達だって、ある日突然できた友達なんか頼れないから、10年単位でそれなりに連絡とらないといけないし、家族もケアは必要。でないと、そのひとにとっていらないひとになってしまう。自立というのは依存先が複数あることだからな。仕事もそうだ。ある日突然、というかんじにはいかない。数十年単位の信頼関係の積み重ねだ。それに下積みされた自分の人生を、幸福に思おう。

おまえはこれを持っていないので、幸福ではない、みたいに言われることがあるんだけど、いつもポカン、としてしまう。自作がアニメ化して自家用ジェットでも持ってないと幸福ではない、みたいな話されても困るのだ。そんなひとは一握りだし、それを持ってない人間は幸福ではない、といえば、世の中不幸なひとばかりになってしまう。他者の幸福を認めない、ということだ。そもそもなんであなたの決めた幸福に私が付き合わなければならぬのか。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんなかんじのひとは、たいていすぐに消えてしまうのだ。最初から言わなければいいのに、そんな話。ごく一時的な快楽を得られる、自らへの呪詛だ。そういうのって、すごく多い。自分で自分に呪詛をかけないことも大事だ。心の弱いひとほど、自らへの呪詛を吐きがち。

というわけで、幸福そうにしてるか。なんだか、それが最善な気になってきている。この10年、なんだかこれを繰り返している気がする。恐怖と不安に逃げ惑った結果、結局、自分の幸福をかみしめてるのがいいんじゃないの?って。できることは、みずからの幸福を盤石に支えながら、気力体力をなるべく減らさずにいることぐらいなのではないだろうか。

強いて言えば、今やらないといけないのは、危機に向き合えるだけの、気力体力の温存。


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