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男の子よりも腕っぷしが強くて格闘技が好きな女の子が、周囲からの「女らしくあれ」というジェンダー抑圧に負けずに、理解のある女上司に雇用される話を読んだんだけど。

そういう女の子がエンパワメントされるような社会であってほしい。

とは思う。

そういう女の子がガラスの天井にぶち当たらずに出世できる社会であってほしいと思うし、そういう女の子がレイプやルッキズムみたいな女性特有の差別に遭わない世の中であってほしい。

と思ってんだが。

それでも、胸が詰まる気がするんだよな。胸塞がれる気がする。

私は子育てしてるしPTAもやってるんだけど、「ベクトルを持っている子」というのはいつだって少数派なのだ。自分はああしたい、こうしたい、これが好き、あれになりたい、みたいな、そういうベクトルだ。自我、と言ってもいい。

日本人は自我の発達が遅れている、といえばそのとおりなんだけど、かなり先天的なものも大きい気がする。ベクトルを持って生まれた子は、すごく早いうちから発現するからだ。どうしてもこの服が着たい。どうしてもこの色がいい。どうしてもこれが欲しい。どうしてもこうならないと、私は生きられない。みたいなかんじに。ベクトルは男女関係ない。ある子はあるし、無い子は無い。無い子のほうが全然多い。すべての子はベクトルを持っている、と思うのは、雑だ。むしろ、それが多様性というものなんじゃあないか?なりたい職業が無いといけないのか。なりたい自分がないといけないのか。成功なんかしなくても、特別な夢なんかなくても、生きていける世の中が望ましい。人間にベクトルがあるのが前提なのは、向上心が無いと全然生きられない、という意味で、新自由主義的価値観なのだ。向上心がないと生きられない、というのは思い込みにすぎない。社会は発展しないとシステムを維持できない、というのと同じ話だ。発展には搾取がつきまとう。

多くの子は、ベクトルが無い。昔はベクトルが無くても、自我がやわくても、生きていけるような社会であった。そういう人たちのために社会が設計されていた。彼らは型がないと自分をとどめていられない。ゲル状の自我を持っていて、常に社会や隣人と半分溶けている。過去の社会はベクトルの無い子たちに合わせて設計されていて、型や器も用意されていて、だからベクトルのある子たちが生きづらかったんだ。しかし、これからはベクトルのある子たちのための社会に設計されなおされていく。多数派の、ベクトルのない子たちが生きづらい社会になってゆくだろう。彼ら彼女らには、残念ながら、型がどうしても必要なのだ。

ベクトルの無い子たちが楽に普通に生きていけて、ベクトルのある子が頭を叩かれない社会だといいね。そんなのは無理なんだろうか。

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