未必の故意

以前、薬害の漫画を描いたことがある。その時、国内の薬害と公害に関する書籍を何冊か読んでたんだけど、『未必の故意』という言葉が出てくるのだ。聞いたことがあるだろうか。

未必の故意、というのは、相手がどうなってもかまわない、そんなこと意識にも登らない、という精神状態のことだ。未必の故意も罪に問われる、という話だったと思う。この精神状態がまた、なんとも根が深い。

根底にあるのは植民地主義的な差別だ。人種差別とか、部族差別とか。そういった悪意が、言動の裏にべったり張り付いている状態を未必の故意って言う。

たとえば薬害エイズの場合、「病気の血液を健康な血液と混ぜて血液製剤を作っても、使うのは日本人だから気にしない。相手がどうなっても気にならない。自分は責任を負わない立場なので大丈夫。嘘をついても自分は罪に問われない立場だから大丈夫。みんなやってたし」みたいな感じ。それが幾重にも重なると大きな被害になる。相手が自分自身や家族だった場合は気にするけれど、全然知らない他人だと気にしない。水俣病の場合はチッソという企業がまさにそれで、どれほど水俣市で病気で出ていて大騒ぎになっていても、チッソは毒物を流し続け、役人と御用学者はそれを誤魔化そうとし続けた。わりとびっくりするほどシャアシャアと嘘をつくし、隠蔽工作もするし、場合によっては口封じもする。その件読んだ時は驚いた。水俣病は、水俣病被害者が訴訟を起こしたときに、その被害者をさんざん叩いた側もその後水俣病を発症した。それも特筆すべき出来事だ。あの悪意の連鎖みたいなものは一体なんなのだろう?いったい何がその「困っている被害者をさらに叩く」という悪意に変換されるのか、と考えると、本当に闇が深い。癇癪めいた殺意と破滅願望に近い気がするのだ。なんというか、自分が本当は差別される側である、ということを知りたくない、それを知るくらいならば他者も世界もぶち壊したい、みたいな、癇癪だ。そこから変換された、公害被害者への悪意。なにかの屈折した感情が変換された悪意。

書籍を読んでいると、その未必の故意とされる言動の、裏にべったり張り付く人間の悪意というものに驚かされる。悪意がない、と言い張れるレベルではないような猛烈な悪意、あるいは他者への殺意なのに、意識上にはあんまり登っていないかんじなのだ。差別心というのは本人にはあまり意識できないものなのかもしれない。その人の顕在意識としてはっきりとは自覚されないけど、潜在意識にはガッツリとある悪意。

その手の、地下の見えない部分に潜っている悪意に敏感であるか否か、は、植民地主義を感じ取る上で大事な感性だと思う。そして、今現在、自分の身を守るために必要な感性でもあると思う。

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