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ジェンダー論と欠落と壮大な話。

若い子の足を引っ張る気はさらさらないから言いにくい。言いにくいんだけど、年寄りに見えてるものもいっぱいあるのよ。

20年前のやおい論=ジェンダー論では、「女が欠落する」と言われた。欠落、というのは、そこに在って当然のものが欠落している。空白になっている。見えないことになっている。欠落の存在感。というもので、やおい論は特にその、欠落が重要だったのね。女であることの傷が深ければ深いほどに物語では女が欠落しやすかった。逆に、女性ジェンダーにそれなりに適応している作家が描くと、女性キャラが魅力的に出てくるのね。でもその欠落って、欠落していない標準の状態を知ってないと、そこになにかが欠落しているってわからないじゃない?欠落の期間が長すぎて、欠落が常態化してしまうと、もうなにが欠落しているかすら理解できなくなってしまう。

今、同じように新自由主義が欠落している。

ジェンダー論は、文系の学問すべてを横断する巨大な学問なんですよ。文学、歴史、思想哲学、宗教学、社会学、心理学、ありとあらゆる学問を横断しなければならないゆえに、修めることが出来るひとが稀有で、一般人なんか出来るわけないんですよ。出来てる一般人はすごい。私はかじった程度。

新自由主義は経済学や、政治哲学、国際政治のレイヤーの話だ。もう文系ですら、ない。それでも経済学の知識がなければジェンダーが語れないほどに新自由主義の影響がすでに強い。それは畢竟、ポスト資本主義の話にならざるをえない。資本主義の次はなにか。という話で、そりゃあもう壮大だ。私たちは近代国家の先の話をしないといけない。

「フェミニズムの矮小化」、というのは、「近代国家の先、資本主義の先の話をしなくちゃいけないのに」という意味だ。なんかもう壮大すぎてすごい。

私たち、すごい時代を生きているな。


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