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担当さんと打ち合わせをしてて映画の『楢山節考』を勧められて観たんだけど、『ミッドサマー』を思い出す。姥捨て山の話なんだが、捨てられるおばあちゃんはいたってポジティブに当たり前に捨てられよう=殺されようとしている話だった。『ミッドサマー』じたい、創ってる側が「その価値観はただひたすら怖い」と思っているのが透けて見えて、それが残念なかんじだった。『楢山節考』のほうは、こういうおばあちゃんいたんだろうな、そして自分もその時代そこに生まれてたらそう思ってたんだろうな、というかんじが、作品としてさらに怖くて痛々しい。リアルだ。ゲシュタルトがあるからだろう。そこでその価値観で暮らすことで、自分の尊厳と集団を守る、という、意味があった。意味があればそれは民族における大事な文化だ。『ミッドサマー』はただの狂信であって、ただそれっぽいもののつぎはぎで意味がなく、文化も無かったからだ。

今、さらに資料で安丸良夫読んでたんだけど、明治維新ってなんだったのだろう、とやはり思う。地方の貧農の生活を叩き壊した。生活の基盤となる民間宗教と職業ギルドを叩き壊し、仏像と寺を焼き中間共同体を徹底的に壊し、中央集権化して、しかし国は一切の責任を負わず、代わりに都会に大正ロマンの徒花が咲き誇っていた。日本統一という形のリージョナリズム。通俗道徳という名の洗脳で、国民が食い詰めて死ぬのは自己責任とされ、のちに続く世界大戦の兵士たちの精神性を形作っていく。通俗道徳は、異常なまでの日本兵の残虐さの土台を作ったともいえる。

果たして明治維新とはなんだったのか。

その前の前近代の日本が天国だったとは思わない。あいかわらず飢饉が起これば膨大な数の人間が死んだ。姥捨て山もあっただろう。しかし天皇制ファシズムを形成し家父長制の雛型とし、その構造ゆえに割を喰った女たちがいた。社会学者が言っていた「近代化とは植民地化」と言う言葉を思い出す。たしかに、前近代の獣のような生存競争に加えて、植民地化という特殊なひな形みたいなのが仕込まれたのが近代だ。近代化は植民地化そのものなので、近代の価値観だけで考えていると、植民地化というデメリットが見えなくなってしまう。近代化は植民地化をスコトーマに入れてしまう。近代に洗脳されていると、植民地化が見えない。認識できない。『楢山節考』は認識できるゆえにゲシュタルトを持ち、『ミッドサマー』は近代化されているゆえに認識できないから、ただのつぎはぎになってしまうのはそのせいだ。

大正時代の新興宗教団体は近代化へのカウンターカルチャーであった。そこには特殊な物語がある。近代化というものの負の側面が見えているひとたちが作った物語だ。その物語の解読をしたのが安丸良夫。乾いた砂に水が染みこむように文字が入ってくる。読みやすい作者だ。今の時代によく似ているな、と思いながら読んでいた。現代の新興宗教の基盤がこの時代に生まれ、変質し、利用され、ものによっては日ユ同祖論も仕込まれて、今の政治へと続いていく。

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