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コンサートに行くという体験

音と空間の関係性について、引き続き考えています。コロナ禍になり、コンサートに通わなくなって久しい今日この頃。「コンサートに行く」という体験がどういったものだったのか、考えてみました。

音を聞く、という意味では、昨今の配信でも同じ体験を享受できていると思います。でも、何か足りない。何か埋められない穴がある。そう感じるのはどうしてなんだろう。

それって一つは、「コンサートホールやイベント会場に足を運んでいない」ことだと思うんです。

例えば、いつもサントリーホールまで行くのに「溜池山王駅からホールまで歩くのめんどくさい」と思っていたけど、家から溜池山王駅まで行って更にあそこまで歩くという体験込みで、わたしはコンサートというエンターテイメントを経験していたのだ、と思ったんです。

ここ数か月読んでいる本があります。ロジェ=ポル・ドロワ(土井佳代子訳)の「歩行する哲学」という本です。

この本では、「歩く」ことと「思考」することが、どんな深い関係にあるのか、歴代の哲学者の歩行を解き明かすことで示唆してくれています。音楽がある意味「聴覚的思考法」だと思っている私としては、「歩く」ことは「音楽を聞くこと」と切っても切れない関係性にあるような気がしています。

コロナ禍で歩みを止めた私たちが、仮に音楽をあるべき姿で享受できていないとしたら、それは一つに「そこに行く体験」が失われたからかもしれない。自らの身体が意志を持って歩んでいく、その先に音を聞く体験がある。仮にハイクオリティの音質で臨場感の溢れるサウンドを聞いても満たされないんだとしたら、もしかしたらその「移動そのもの」を作り出さないといけないのかもしれない。

そう思ってこんなことを呟いていたのが一月中旬。

jwcmメンバーの渡辺愛さんからこんなサジェスチョンをもらいました。

コンサートホールの椅子サブスク!そうか、あの椅子もあそこにいたことを感じさせる何かになりそう。

「コンサートに行くことは自分の知らない自分を発見することでもある」とすると、「ふいに流れる過去のマイナー公演」に出会わせてくれる、それだけで「コンサートに行った体験」を代替してくれる可能性があるのかもしれない。実際コンサートに行くときは「〇〇の〇〇を聞きに行く」という名目がある場合が殆どですが、この場合のコンサートというのは、「なんだか知らないけれども、何かを聞きに行く。自分で発見する」体験になるはずです。寧ろ、そこで流れる音が「どこかの川のせせらぎ」でも良いと思います。それを「コンサートというフォームで聞く」ことで、何が起きるのか、じっと椅子に座って耳を酷使する、あのかつての一時間半をどう取り戻すのか。

もしかするとこんなシンプルな構造を設定してあげるだけでも良いかもしれない。

①自宅からいつも行っているコンサートホールやライブハウスまでの道のりと同じ距離を移動する(その方向は自由)。

②そこにサブスク椅子が置かれている。

③座るとヘッドフォンから音が流れてくる。

体験後にみんなが集まれるような疑似スペースがあればより良い。コンサートは社交の場でもあり、体験を共有できるところまで設計することができれば。

コロナ禍の今、配信型のコンサートは必須だと思うんです、思うんですよ。だって表現者が表現する自由はいつの時代にもあるべきじゃないですか。

ただ、「聴く」という体験は至極能動的でありたい。今は「発信する人」が増えて「聴かれたい音」が溢れています。「聴かれたい音たち」にしばし蓋をして、ヘッドフォンも持たずにただ歩いて歩いて、その先に「知らない音」がそっと置かれている。それを自らの意志で「聞き取る」。そんな体験ができたら素敵だなぁと思うのです。

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コンサートという体験を提供するための仕組み、また考えてみたいと思います。

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