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ダイアローグ: Arts and Women【音楽家と社会】➂

かつて影なる場所で息を潜めていた⼥性アーティスト。それは果たして本当に過去のものなのか?⼥性アーティストと社会をテーマに始まったシリーズプロジェクト「ダイアローグ:Arts &Women」。初回はjwcm共同代表の渡辺裕紀⼦(作曲家)をホストに、EGSA JAPAN(芸術におけるジェンダー/セクシュアリティ教育を考える会)のメンバーであり、舞台芸術関連アーティストの分析をライフワークとする社会学者・⾼橋かおりを迎え、⾳楽家と社会について論じます。こちらは2020年12月20日に行われた上記イベントの書き起こし記事第三弾。第一弾第二弾からご覧ください。(編集:わたなべゆきこ)


ダイアローグ:Arts and Women 【音楽家と社会】①
ダイアローグ:Arts and Women 【音楽家と社会】②

渡辺愛、以下愛:本の話題が出たので、質問をしたいんですけれども良いでしょうか。

愛:この本、本当に面白くって。まず第八章を始めとして様々なケーススタディが挙げられていて、そちらも、もちろん興味深かったんですけど、結構コラムが面白くって。

例えば、「音楽とジェンダー」に関するコラム。「男女間の(アン)バランスを考える」と書いてらっしゃいますけれども、jwcmでは2018年と2019年に中堅女性作曲家サミット(vo.1vol.2)というのをやっていて、そこでも似たような内容が挙げられたんですね。

音楽教育に関して日本ってとっても豊かで裾野が広くて、特に女の子に対して幼少教育の中で音楽を習わせるって、そういうご家庭は沢山あると思うんです。それが本書で書かれている「音大に女子学生が多い」っていうデータにも実際現れていると思うんですけど、対して「教員の大半は男性である」と紹介されていますよね。

数の問題として、「学生は女性が大半を占めるのに、教員は男性がほとんど」という現実があります。在学生の男女比を公表している音大の情報をみていきましょう。東京芸術大学音楽学部の2020年度の在学生のうちの女子学生比率は65パーセント(1000人中653人)で、男性が半数を超えるのは作曲科と指揮科だけです。大学院(修士課程・博士課程)の在籍学生も60パーセント強を女性が占めます。あるいは、桐朋学園大学音楽学部の場合、20年度学生在学生のうち女性は85パーセント(650人中567人)です。それに対して教員の大半は男性です。
(相澤真一・高橋かおり・坂本光太・輪湖里奈(2020)「音楽で生きる方法」青弓社、p120-121)

これは今回のプロジェクトで協力関係となっているEGSA JAPANが取り上げているテーマでもあるわけですけれども、音楽を学んできた女の子は多いのになぜか社会に出ると男の人が多くなる、この現象の理由について高橋さんは、本書でこうご指摘されてます。

第一に指導でのハラスメントの問題です。例えば、演奏は身体を使っておこなうため、指導者が演奏者の身体に触れることがあります。(中略)第二に、特に女子学生にとってロールモデルが見つけにくい問題があります。このまま演奏活動を続けていってどうなるのだろう、オーケストラ団員にも大学教員にも女性が少ないのならば、いったい誰を手本にすればいいのだろうか。そうなやむかもしれません。
(相澤真一・高橋かおり・坂本光太・輪湖里奈(2020)「音楽で生きる方法」青弓社、p122)

一つは「ハラスメント」。二つ目が、「ロールモデルを見つけにくい」という問題。ハラスメントというのは見えにくいし、凄くセンシティブです。特に演奏家には深刻な問題だと思います。それについては後半取り上げられたら取り上げるとして、二つ目の「ロールモデルを見つけにくい」問題について、ここで深めていきたいと思います。前に人がいると歩きやすいわけですよね。「あの人がいるから」「あの人みたいにやったら、こういう活躍の仕方がある」という指針があるといける。

私も作曲をやり始めた時は、周りに同じことをやっている人がいなかったけれども、掘っていくうちに「ああいう人もいる」ってなっていって。自分の場合は、中学・高校でソルフェージュを習っていた先生が女性で年齢も若めで、当時ピアノの伴奏のお仕事をしながらも「作曲家」と名乗って活動をされていたんですね。それもお堅い感じだけではなくて、分野横断というか、私が今専門にしている電子音楽に近いような創作だったりエレクトロニカだったり、クラブっぽい音楽なんかにも興味があるっていうのをオープンにされていて、「あぁ、かっこいいな」と思って。「こんな女性になりたい」じゃないですけど、彼女のように作曲家と名乗って活躍するような未来があるんだったら「やってみたい」って思えたんです。

そういう存在が身近にあるかどうかって、その後の人生を決める上で重要ですよね。だから「色んなロールモデルを示していく」っていうのは、中堅になってしまったわたしたちの責務であると思うんですけれども、その辺jwcmのメンバーがどう思っているのか。「今が大変」っていうのもあるけれども、後に続く人たち(それは女性だけでも男性だけでもなく、どちらでもないという方も)にどういうロールモデルを示していけるかって、そこにどういった問題意識を持っているのかっていうのをメンバーみんなに聞きたい。あとその話を受けて、高橋さんにもお話を伺えたらと思います。

わたなべ:わたしたちの活動の中でも、これまで知られていなかった(自分たちが知らなかった)女性作曲家の活動を知ることが勇気に繋がって「こんな人がいたんだ。それならわたしにも出来るかも」って思えたっていうのがありましたよね。だから自分自身も後世の誰かのために何か光を与えられるような活動が出来ればいいなと思います。そのために活動を言語化したり、見える化していく必要はあると思うんです。

私は子供がいるんですけれども、子供って目に見えやすいものに憧れるところがあるじゃないですか。「幼稚園の先生になりたい!」とか。見えるから「やってみたい」って思う人も自然と増えていくんじゃないかと感じます。

愛:その「見える化」っていうことで、動画の話に戻ってしまうんですけれども、動画の中でも誰かから久石譲とか坂本龍一とか名前が出ましたけれども、あのクラスの人が一人バンっと出ていれば、変な話わたしたちががんばってロールモデルを示さなくても印象付けられるわけなんです。著名人が持つ「声の大きさ」?ちょっと複雑ではあると思うけれども、事実としてそういったこともあるんじゃないかと。老若男女問わず、知ってますよね。そういう大きな存在が一つでもあれば乗り越えられる課題もあると思うんですが、それが今現在はないわけで。「チーン」って感じですよね。

わたなべ:牛島さんは、この辺りはいかがでしょうか。

牛島安希子、以下牛島:私も自分自身にとってのロールモデルがありませんでしたね。両親も音楽家ではなく、地方に住んでいて身近に音楽家がいた訳でもなかったので手探りでこれまで進んで来ました。

わたなべ:牛島さんは現在名古屋にお住まいですけれども、これは地方と都会の違いもあるんでしょうか。

牛島:そうですね。以前も、中堅女性作曲家サミットとかでお話したような気がするんですけれども、自分の作曲の先生がずっと男性だったので(作曲のことはたくさん学ぶことがあったけど)自分が女性の音楽家としてどう生きていくかということを考える機会は若い頃はなかったですね。完全に切り離して考えていました。例えば、現代音楽分野ではないですし身近な例でもないんですが、例えば映画監督の河瀬直美さんとか音楽家の椎名林檎さんとか、子供を育てながら第一線で活躍している女性がいるという認識、それも可能であるという例を認知していたので、将来的に子供が産まれても活動を継続していくことは不可能ではないと希望は抱いていました。

現在はjwcmのメンバーの皆や、同世代でお子さんがいらしても、活動を以前と同じペースで続けている人たちに刺激をもらっている状況で、自分がロールモデルにならねばという意識はあまりないですね。結果的に若い人に良い意味での刺激になれば...と願うのみです。

わたなべ:私も出身は長野なんですけれども、やっぱり地方になるとロールモデルがなかなか見つけにくいのかもしれませんね。地方にもよると思うんですけれど。山根さんの話を聞いてから高橋さんに戻したいんですけれども、山根さん、いかがでしょうか。

山根明季子、以下山根:今ロールモデルになってる人って、「ロールモデルになろう」と思ってなっている人ではないですよね。「ロールモデルにならなければ!」って思ってできるものではないし、個人的には「道なき道を行く」って面白いことだとも思ってるんです。jwcmでリサーチする中で「知らなかった人」について知っていく過程は、とても楽しいことだったし、それが自分がジェンダーという視点で音楽を考えていくきっかけにもなって。最近は「自分自身が女じゃないんじゃないか」って思うようになってきたんです。 「男か女か」という二元論では分けられない、自分の中の〈ジェンダーセクシュアリティ〉みたいなことも掘り下げて考えるようになったんですよね。

あとは、身体的な性別からくるハラスメントは男女に関わらず有り得ることで。それよりも、西洋音楽が持ち合わせている男性的な性格というか、ホモソーシャルの社会のあり方に最近は興味関心を持って、その辺りを掘り下げつつやっていたりしています。

わたなべ:先ほどおっしゃられた通り、「ロールモデルになろうとしてなるわけじゃない」というのも、わかる気がします(もしかすると「ロールモデルになろう」という考え自体がホモソーシャル的な発想かもしれません)。そしてjwcmで活動をする中で知らないことを知っていて、そこから「何かやってやろう」という方向に意識が向くというより、自身の内面的な感覚が開けてくるっていうのも、すごく共感します。

では一旦高橋さんにお返しして。最初の、渡辺愛さんのお話に関してまた聞かせて頂きたいです。

高橋:今伺っていてそういえば書いたな、そうだったと思ったことがあって。ハラスメントの問題とロールモデルの問題についてなんですが、ロールモデルについて、これは共著者の音楽家の方と話した時に出てきたのかもしれないんですけれど、 それっていうのは「ほどほどの人」が見つからないっていうレベル感の話なのかなと思っていて。言い方は変ですけれども、すごいトップの人と身近な人はいるけれども、その「中間の人」が見つからないっていうことなんじゃないかと。

皆さんのお話にも出てきたように、ちょっと上の世代の方だと仕事もやりつつ、でも家庭の事はあんまり言わない。言わないからこちら側は「ちゃんとやっているんだろう」と感じてしまう。それを傍目から見て「ちょっと無理かも」、「そこまで頑張れない」って思ってしまうという話なのかなと思いました。なので、山根さんが「ロールモデルは、なろうと思ってなるものじゃない」と仰ったのはまさにその通りだと思うんです。「こういう人もいるんだよ」っていうのが、この本でやってることでもあるんですけれど、「こういう生き方もあるんだよ」っていう見え方があるといいのかなと。それと、全面的にその人の真似をしなくても一部分はこれがいいと思う、あそこがいいと思うっていくつか選択肢があるってのは大切なのかなと。改めて考えていたことです。

わたなべ:じゃあ、トップを目指してすごく大きな仕事をするっていうよりは、等身大のいろんなパターンをちょっとずつ見せていくっていうところでしょうか。

高橋:そうですね。私自身の研究が、アーティストって言うとすごくトップの人しかみんな知らないけど、それ以外の人はみんなどこにいるんだっていうところが話が始まっているので。もちろん、それぞれに実力がある方にお話は伺っているんですけれども、それこそ「紅白歌合戦」、「朝ドラ」的に名前は出ないけれども実力がある人っていうのはどこでどうしているんだっていうのは、いつも思うところではありますね。

わたなべ:そういう等身大のアーティスト像っていうのが、私たちの現代音楽というジャンルだと見えにくいというか、そういうふうに感じられますか。

高橋:はい。私は縁があって音楽の方と関わる事になったりするんですけれども・・・なんだろうな。私はお話を聞いた人それぞれに「それぞれの作品がいいな」とか思うんですよ。それを作品で伝えるというのはプロじゃないんで、できないんですけれども。だとしたら自分ができるのは、「こういうふうに生活している人がいるよ」とか「こういう活動をしている人がいるよ」と紹介することなのかなと思うので。

これは前のサミットでもちょっと話題になったと思うんですけれども、 「作品の批評性」とかっていうのは、本当は別の方がやってくれるべき、なんだけど、そこがないっていう話があったじゃないですか。それを一旦置いておくとしても、そうじゃないやり方で社会に対して、もしくは芸術に関わってる/音楽に関わってる人に対しては、「こういうパターンもあるよ」みたいなのを見せられればなっていつも思っているところではあります。

わたなべ:今いろいろ話をしているんですけれど、言語化するシーンがあまりないと言うか。自分の作品については毎回プログラムノート(曲目解説)を書くんです。新曲を書いたときには、だいたい書かなきゃいけないんですけれども。でも字数も決まっているし、見えないフォームみたいなものもある。だから実際自分の口で何かを伝えるってあんまりない。それに作品以外の話をするということは本当に稀なんですよね。jwcmはそこに特化してやっているんですけれど、今までなかなかそういうことはなくて。そういうところのプラットホームみたいなものがあれば、もうちょっと開けて理解されていくのかな、なんて思うんですけど。

先程おっしゃられていた批評みたいな話の他に、音楽以外のシーンだとどんな風にその辺のことをやっているんでしょうかね。

高橋:それで思い出したんですが、まさに今話に出ていたことで研究者の中でも「若手研究者の生活問題」みたいなことが学会でもトピックとして上がっていて、とある学会で聞いたんですが「いわゆる『生活の問題』を学会の場で語ることは、あんまりよくないと思った」と発言された先生がいたんですね。「生活は生活」「自分の業績は業績」みたいに、切り離して考えるべきだということだったんですけれども。その方は、そういうトピックの場に呼ばれたからすごい身を削って登壇しました、みたいなことを話していました。私もそのタイプではあるんですね。自分の論文とか書籍と、自分の生活状況は切り離して語るべきだと思うんです。

ただ逆に、切り離せるんだったら生活だけを語ってもいいんじゃないか、と最近は思うようになっています。個人的に最近考えているのは、生活の話と切り離せはしない、ということです。創作活動だったり表現活動はそのままで話せるけれども、それと生活も一緒に話せるってなったら、サクッと生活だけの方の話をしてもいいんじゃないかと。これは私個人の研究では思っているところです。ただ、学会全体、学問的には「みんなどうやって生きているの?」って話は結構ありますね。

わたなべ:なるほど。他の分野でも、なかなかそこは言いづらい感じなんでしょうか。難しいですね。愛さん、高橋さんの答えに対して、その続きは何かありますか?

愛:「ほどよいロールモデル」というのは、キーワードかなと思いましたね。超ビッグスターか、私のように先生にたまたま出会ったからっていうことじゃなくて。

あとは、「この人のこういう部分を真似する/モデルにする」というようにバイキング形式の良いとこどりで、自分のライフプランの一助にするというようなのはあるんじゃないかな。何かのモデルを見つけるって言うと、そこに直線的に向かって行くっていうイメージがあると思うんですけれども、今の時代はカスタマイズが大事なんじゃないかなと思っています。

だから山根さんがおっしゃったみたいに、自分がロールモデルになろうとしなくて全然良い。自分があるがままに、興味の赴くままに活動をしていたら、その一部分を誰かが拾っていくかもしれないし、また違う部分は違うところで拾われて行くかもしれないし。それでまた新しいプランができていくっていうのが、幸せな形なのかなと思いました。

わたなべ:「カスタマイズ」って確かにそうですよね。いろんなパターンがあるから。

愛:私は情報に助けられたところがあります。情報収集にすごく長けてるとは思っていないけど、勉強したからいろいろ選べるようになったので、そういう面では教育に感謝しているんです。

というのも、またジェンダーの話に戻っちゃうし、個人的な話にもなるんですけど・・・ うちの母はすごく熱心に音楽をやらせてくれたと思っているんです。それこそ「藝大入れたい!」みたいな熱意で熱心にやらせてもらっていたんですけれど、いざ学業が終わろうとしてみると、結婚とか旦那さんを支えるとか、そういったほうをめちゃくちゃお勧めしてくるんです。おかしいだろうと思うんだけどね。年代的なものなのか、性格的なものなのか。片田舎だったのでそういう地域的な事なのか、それは分からないんだけど。学校休んだりとか、その他のことは捨象しながら、あれだけ熱心にがむしゃらに音楽やってきて、そんなにいきなりお嫁さんの準備なんかできるわけないじゃない。でも親の頭の中では、ある地点からそういうストーリーになっていた。私が大学に残ってバリバリ音楽をやろうとしてると、「そんなにやんなくっちゃいけないことなの?」とか。今でも、保育園に預けまくって掛け持ち教育してることに対して、「子供が可哀想だ」とは言うんです。それって何なのかな、と。

それは個人的な話に聞こえるけれども、実は構造的な問題でもあると思うんですよね。そんな中で、自分が「これでいいんだ」と思えるというのは、色んなモデルケースをちょいちょい掴み取って、選択できる力を得たからなんじゃないかと高橋さんの話を聞いて思いました。All or Nothing で、すぐ「じゃあ私はだめだ」とか「もうこれしかない」と思いがちだけど「ここはこうとる」とか、「ここは70%ぐらい取って、後は私っぽくブレンドする」みたいなやり方でなんとか毎日を乗り切っているかな。今日お話を伺ってそう思ったんですけど。高橋さん、いかがでしょうか。

高橋:支えてくれた親が突然違うことを言うのは、ありえる話だよなぁと思いました。今仰ったように、選択できるっていうことが大切。それは皆さんと共有できると思ったところです。

反面教師っていうのも、もしかしてあるかもしれません。ポジティブにモデルにするだけじゃなくて、「こうはなりたくないかな」みたいな。本当は、ネガティブな積み重ねはあまり良くないですけど。「こうじゃないから私はこうする」みたいに、いい意味で反発するっていうのもありつつ。そうすると、次の世代が変わっていったり自分たちの世代が変わっていくのかなってことを、伺っていて思いました。

(愛)なるほど、そうですね。

ー質疑応答ー

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