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大切なことができて、よかった。

「自分にとって大切なこと」

これを考えたときに、心に浮かんできたのはこの歌詞だった。

良し悪しって簡単に 決められない気もしてるけど
大事だって思うのは 何が大事か忘れないこと
ああ 人知れぬ涙の その哀しさとか
ああ 差し出された手の 優しさだとか

SUPER BEAVER「ラブソング」より
(歌詞はこちらから引用)

忘れることには、なかなか抗えない。
だから忘れないために、書いている。

大切にしたいことを、忘れないこと。

それを大切にしたい。

一年書き続ける中で、自分にとって大切なことがわかってきた。

心の声を聴くこと。
その声を目に見える形にするために、書くこと。
それらを受け入れること。
何者かになるのではなく、私は私になればよいこと。
そんな私には価値があると信じること。
今を感じながら生きること。
良し悪しではなく「どう感じるか」を大切にすること。
日が常にあるとは限らないこと。
毎日は誰かの手によって支えられていること。
自分次第で楽しいことは増やせること。
少しの勇気でいいことも起こせること。
周りから受け取っているものの多さ、大きさに気づき、感謝すること。
気づいたなら、周りに返していくこと。
一つひとつのご縁を、丁寧につなぐこと。


これらはみんな、書き続けながら気づいたこと。
ふりかえったときに、大切にしたいと思ったこと。

一年前の自分がこれを見たらどう思うだろう。
「はぁ」と、わかるような、わからないような。
フワフワしたこと言ってるな、と思う気がする。
だから何?みたいな。

擦れていたし、硬かった。
たぶん。

たぶんというのは、そのときの気持ちを正確にはもう思い出せなくて。

上に書いたようなことを「大切でない」と思っていたかもしれない気持ちが、もうわからなくて。

それってすごく喜ばしいことなんだろうな。
「言ってることはわかるけど」という状態から、私という人間の一部に溶け込んでいる状態へ。

変わっている。確実に。

たぶん、幸せに生きたかったんだと思う。

幸せになりたいから書き始めたわけではなかったけど、そういう願いは、おそらく心の奥の方にあったんじゃないかなぁ。

「幸せ」という概念について、それまで考えたこともなかった。なんなら、その概念の存在を信じていなかったかもしれない。そんな擦れた自分もまた、心の奥では嫌悪していたのだろう。

でも書きながら気がついた。
「こうなったら幸せ」「こうなったら不幸せ」というものはない。一つの定規で、一人ひとり違う人間の幸せは測れない。

自分の心が「幸せ」という感情をとらえられるか、否か。
ただそれだけなんだよなぁ。

無意識にでも、幸せになりたいと思っていて。
書きながら大切なことに気がついて。

そして今、幸せを感じているのかというと、「わからない」というのが正直なところ。
ここで「感じている」というのは、うそになってしまうような気がして。それくらい「幸せ」というのは、とらえるのが難しい感情なのだと思う。少なくとも私にとっては。


でも確実に言えるのは、自分にとって大切なことができてよかったなって。

たとえ本に書いてあったり、どこかで耳にしたことがあることでも、自分自身の言葉で、大切だと言えることがあるという事実が。
とてもうれしいことで。
とても心強いことで。


これが幸せというやつなんだろうか。
どうも懐疑的になってしまう。
心の擦れ、硬さが、まだ残っているのかもしれない。

やわらかいクッションのような。
冬の日のひだまりのあたたかさのような。

その心で受け止められたものはみんな丸みを帯びて、ちょうどいい温度を持ち、よい栄養として自分の中に吸収していけるような。
そんな心をもつ人になりたい。



その心で、大切にしたいことをたくさん見つけたい。

大切にしたいことを、忘れたくない。

大切にしたいことを、大切にし続けたい。

そのために、これからも書き続ける。




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