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スポットライト

「全ての言葉は暴力である」という言葉を以前聞いた。

これを話してた人は確信をもって断言するような様子だった。その堂々とした様子に「た、たしかに」と心の中でたじろいだ。しかし強い違和感は残り、心の奥の方までは飲み込めずにいた。妙に息苦しかった。

たしかにそうなのかもしれない。

言葉は受け手がどう受け取るのかが全てであり、発した側の「傷つけるつもりはなかった」という言い分は通用しない。実際私も、傷つける意図ではなかっただろう言葉に傷ついたこともある。だから「暴力的な面がある」ことを理解しておくことは大切だ。この言葉を言っていた人も、最終的には「だから発する際に気をつけよう」というニュアンスの話をしていた。

「言葉は暴力」。
この定義を自分の中にもつのか、もたないのか。
それは個人の自由だ。どう捉えたっていい。

この言葉を聞いて妙に息苦しかったのは、私にとってこの定義は受け入れられないものだったからだ。もちろん理解はするし、わかる。でも「言葉は暴力」という言葉で、言葉のいい面を、もつ力を、覆いつくしてしまうような感じがする。まるで黒いスポットライトを当てるように。

これと似て「生きてるだけで誰かを傷つけてる」もそうだ。わかる、わかるし、実際そういう面もあるんだけど、本当にそうなのかな。そう思うと、黒いスポットライトがまたやってくる。

言葉は分身。
自分の内面を表現する手段として言葉があってよかった。

言葉は種。
何が芽吹くのかはわからない。でも芽吹くきっかけとなる種。大事に大事に育てていけば、花開き、実がつくかもしれない。内面が潤い、豊かになっていく。

言葉はエネルギー。
自分が発する言葉に鼓舞されたり、誰かが発した言葉にエネルギーを分けてもらったりする。不思議なことに、必要なタイミングで必要としてる言葉に出会うことがある。「ちょっと救われたな」をくりかえし、毎日を生きている。

「言葉は暴力」という側面があることは理解するし、頭には置く。たしかに発する側の抑止力にはなるのだろうし、むやみに人を傷つけることは減るのかもしれない。でもそれを理解した上で、そうではないところに光を当てたい。「暴力にもなり得るんだけど、暴力ではないよ」と信じたい。

無茶苦茶なこと言ってるのか。
きれいごとかもしれない。

でも光を当てる場所は、自分で選ぶ。




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