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牡蠣フライの記憶

小学四年生の時、入院中の母と二人きりで出かけたことがある。

「外出許可がおりたの。だから一緒におでかけしよう。学校を休んで、病院までおいで。」

「わたしだけ?」

「そう、ゆきちゃんだけよ。」


約束の日、待ち合わせは昼食には少し早い時間。久しぶりに見る、母の私服姿。見慣れた入院用のパジャマとは違う母の姿は知らない人みたいで、少し気恥ずかしく、なぜだか緊張する。

妹が生まれてからは母を独り占めできることなどなかった。なのに、いざ二人きりになると何を話せば良いか、どう振る舞えば良いか、分からない。

とまどう私を母は、昼の営業が始まったばかりの和食店へ連れて行った。ファミリー向けではない、静かなお店。緊張がもっと強くなって、本当にドキドキしてくる。

母の後をついて行き、奥の座敷に座る。メニューを開く。けれど私が選ぶ前に、母は「これをゆきちゃんに食べて欲しかったの」と、牡蠣フライの定食を注文した。

揚げたて熱々の牡蠣フライが運ばれてくる。頬張るとあまりの熱さにびっくりした。口の中をやけどしそうになりながら、初めての牡蠣フライを食べた。外側はカリッサクッ、中はとろり。とても美味しかった。

美味しいと言いながら食べる私を、満足そうに見ている母。穏やかな母の表情に、心から安堵する私。緊張がほぐれて、ようやく嬉しさがこみ上げてくる。

それからデパートに行ったりしてぶらぶら歩いてから、母は病院に戻った。

病院でパジャマに着替えた母は、病人だった。見慣れたいつもの母の姿。


それが最初で最後になった、母とのデート。私たちはどんな話をしたのか、覚えてもいない。母は私とのデートを楽しんでいただろうか。笑っていただろうか。

これが人生でたった一度のデートだと分かっていたら、もっと母を見ていたのに。もっと母の言葉を聞いていたのに。日記に書いたりして、その時間を宝物のように残そうとしたのに。

あの日の母は薄ぼんやりしているのに、牡蠣フライはやけに鮮明で、その対比が悲しく懐かしい。


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