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イヤホンの思い出や喜びや

大事な話をよく聞き逃すのは耳のせいなのだろうか。
私はどうやら耳の穴が小さいらしいのだ。
カナル型のイヤホンはSサイズでもすぐ落ちてしまう。イヤーピースを低反発素材のものに変えてみたり、羽のような部品を付けて耳介にひっかかるようにしたり、いろいろな工夫をしても落ちる。
落ちそうになる度押し込むのだが、頻繁なので本当に煩わしい。

夫はカナル型のLサイズのイヤーピースがばっちり入る大きな耳を持っている。どうりで子どもたちのつぶやきや質問を聞き逃さないわけである。
夫は昔からイヤホン(で何かを聞き流しているの)が好きだ。もやは体の一部である。
もちろん仕事中はしないと思うし、家でも食事中などにはしていないが、それ以外の隙間時間にはいつも耳にイヤホンが収まっている。

思い返せば、高校時代もそうだった。
ウォークマンを制服のポケットに入れ、当時はブルートゥースなんてないので長ーいコードを首の後ろに巻くようにしてイヤホンをはめていたものだ。
吹奏楽部だったので聞くのは吹奏楽曲ばかり。学生指揮者であった彼は、曲が盛り上がると思わずエアー指揮棒を振るって指揮者に成りきるのだった。
そんな彼をちょっと恥ずかしいと思いつつ、まぶしく眺めながら隣に並んで歩いていたのを思い出す。

公園のベンチに座って話をしている時には、イヤホンの左右を片方ずつ耳に入れて音楽を聴いたりもした。
そういえば先日『はじまりのうた』という映画を観たのだが、シンガーソングライターの主人公(女性)と音楽プロデューサー(男性)が、イヤホンを二股に分配するケーブルを使って、一緒にプレイリストを聞きながら散歩するシーンがあった。
分配ケーブルから先の有線のイヤホンが届く範囲は、近いけどくっつかない、恋人にはならない二人の距離感が表現されていたわけだが、イヤホンの左右を共有して聞くのはもっと近い。肩が触れるほど近い。
つまりは、イヤホンを共有できる距離が恋人同士の距離感なのかもしれない。

さて、我が家に目を向けると、1月も終わりに近づき、学年末テストに向け、心配性の息子たちは早くもテスト勉強を始めている。
でも時々は休憩にちょうどいい短めの動画をユーチューブで見たりして、めりはりをつけているようだ。
ところが、二人の勉強開始時間も違えば、集中できる時間も違うので、休憩時間が合わない。片方がテレビでユーチューブを見始めると、もう片方が集中できないと文句を言い、けんかになってしまう。
そこで一計を案じ、5mもの長いコードのイヤホンを購入した。我が家のテレビにはあいにくブルートゥースが搭載されていなかったためだが、これで音で勉強を妨げることなくユーチューブを見られるようになった。
そうしてユーチューブを見ているところで、「母さんも見たい」と言ってさりげなく隣に座ったところ、イヤホンの片方を借りることに成功した。
息子にしてみれば、親と一緒なら動画を見ることの免罪符をもらったも同然なのだから、文句のつけようがないのだろう。
でも母である私にとっては、思春期入口息子の隣に座れるのは数少ない触れ合いの時間である。
気持ち悪がられるのがオチなので本人にはそれは言わず動画に集中しているふりをするが、心中では息子の隣にいられる喜びでいっぱいなのである。何せイヤホンを共有できる距離は恋人同士の距離なのだから。

イヤホンのコードの先に夫がいて息子がいて、私は幸せだ。そんなことをつらつらと思いつつ、イヤーピースを押し込む日々。その煩わしさも、まるで夫や息子との生活の一側面を表したメタファーのようである。

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