黒電話の頃

昭和に生まれた私にとって、現代の道具はそれはもう便利としか言いようがありません。
なかでも電話の変化はいまだに驚くことばかり。

コードレスホンが我が家にやってきたときの感動はいまだに覚えていて、電話を持ちながら移動できるだけでウキウキしたものです。
早く使ってみたくて、誰か電話してくれないかとソワソワしていました。

電話を持ち運びできるようになることだけでも驚きだったのに、外に持ち運びが出来るどころか、もはや電話と呼ぶことすら疑問になるくらいの多機能っぷり。

こんな時代に自分が生きていることがときどき不思議に思えるほど、環境は変わりました。

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私が子供の頃は「黒電話」というダイアル式の電話でした。
当時は無線で使える物はなかったので、電話も電話用のジャックがあるところにしかつなぐことが出来ません。

電話の置き場によっては会話が家族に筒抜けになるということも。
周りに聞かれたくなければ電話線を伸びるところまで引っ張り、出来る限り家族から離れた場所まで移動するしかない。
電話線の長さはプライバシーと密接に関係していました。

私の家の電話は玄関横に設置されており、なんとか扉ひとつ分は隔てられていましたが、すぐ隣に家族がいる状況だったので聞こえてしまうリスクはかなり高く、なんとも落ち着かない心境でした。

話を聞かれるかもというリスクだけではありません。電話をかけても、最初に出る相手が目的の相手とは限らないし、相手が在宅しているとも限らないため、会う約束ひとつするまでの労力もかかります。

誰が電話に出るかわからないというのは、それなりに緊張もしました。
慣れてくればどうってことのないようなことでも、最初の頃、しかも子供の頃は特に。

「○○ちゃんの友人で××と申しますが、〇〇ちゃんはいらっしゃいますか?」

相手が出たらこのフレーズがスムーズに出るように、頭の中で反芻しながら電話をしていたことを思い出します。

運よく相手が家にいるならばそこで取り次いでもらえるけれど、居なかったら折り返しの電話を欲しい旨を伝えるか、再度またかけ直す。
伝言がうまく伝わったとしても、かけ直されたのが翌日だった場合、今度は私が不在ということもあるので、何日もかけてやっとつながったということも決して珍しいことではありませんでした。

電話機が家に固定されていることの弊害は他にもあります。
一歩外に出たら連絡手段がなくなるということです。
公衆電話はありますが、相手が家にいない限り連絡はつきません。
待ち合わせに遅れると一言伝えたくても、相手はすでに出かけてしまっているので、電話をしたところで意味がありません。
とにかく約束した場所に向かうしかないのです。

一方待っている側としても相手が来ない以上、その場で待つしかありません。どこかで時間をつぶしたくても、相手が来たときにその場に居なければ、もしかして遅くなったからもう帰ってしまったのかもしれないと思われ、すぐにその場を立ち去られてしまう可能性もあるからです。

だから当時友人たちと、何分までだったら待てるか?ということが会話のネタにもなったくらいです。10分の人もいれば、1時間待つという人もいて、個性が現れていました。

お互いに約束の場所に居ながら会えなくて帰ったこともあります。
探しても見つからず泣く泣く帰り、家に帰って電話をしてその事実に気づき、さらにショックが大きくなるという・・・。

「遅れる」
「〇〇にいる」

そんな一言が伝えられずにもどかしい思いをしたことは数知れないのです。

こうして思い返してみると、当時はよくあれだけのことを平然とやってのけていたと、体験していた事が噓のように思えます。
今同じことを出来るとは到底思えないし、どうしていたかも即座に思い出すことすら出来ません。
むしろ、もうあんな大変な思いをすることを望んでいません。

なのに今当時を思い出すと、あの時はあの時で良かったなという気持ちになるのです。

確かに大変であったのは間違いないのですが、それは今だから思う事、比較が出来るからそう思うのです。
当時は他に手段がなかったからそうすることが当たり前で、大変だと思うことすらありませんでした。

そして不便だからこそ味わえた小さな喜びがありました。
待ち合わせで相手を見つけたときは、
「会えた!」
必ず会えるとは限らないことを知っていたので、毎回心の中で喜びを感じていたのです。

いつの頃からか、
「会えた!」

「居た」

に変わりました。
待ち合わせで会えないことはありえない、会えて当たり前だと私が思っているからです。

誰かと待ち合わせをして会うということ自体は今も昔も変わりません。
そこに至るまでのプロセスが道具の進化によって変化し、それにともなって私の感じ方が変わっただけです。

けれどあの頃味わった小さな喜びはいつの間にか消えていました。
むしろ消えていたことに気づきもしなかったし、当時そんな喜びがあったことすら今思い返さない限り気づくこともなかったでしょう。

だから、あの頃はあの頃で良かったなと思えるのは、今になって初めて思えることなんだと思うのです。

便利になって当たり前になったからこそ、不便の中にあった喜びに気づく。
当時の当たり前を今こんな気持ちで思い返すことが出来るのは過去を体験して今を体験してこそだと思うと、どちらが良かったとも言い切れない気持ちにもなります。
離れてからでないと見えないことはたくさんあるのでしょう・・・。


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