Juvenile
街路樹として植えられている銀杏がすっかり緑から金へかわっていた。何かへの反応が億劫な朝の通勤だがそれだけが少し気になる。同時にカラーリングのせいでちょっとガサガサとした自分の前髪が、朝日によって更に金糸のように、銀杏と同じ色に透き通って視界を遮っている。光源の面白さが勝り、ものぐさな私はそれをそのままにした。
最近、なにかに反応することが億劫になっている。抗うことだったり、同じ話題の新鮮さのないような、無限ループの世間話、糾弾、そういったことへの熱量のポテンシャルが地球のコア層くらいの深度まで落ち込んでいる。「気に入らない」「許せない」それがなんなんだろう。環境があったり声を上げさえ出来たら、自分の我儘が通ってきた人々なのかもしれないが、他人のことや不利益になることはとことん無視をするのにと、その形容し難い心情が湧き上がるのみなので正直に言って「虚無」以外の感想が最近は持てない。そのうえ「手のひらドリル」などの属性持ちであれば(手のひらを人や状況にあわせて容易にひっくり返すの意)さらに意味を持てない。
同じことの繰り返しであるはずである季節の移り変わりに対しては、そういったネガティブな要素はないから内包しているそのもの自体、案外影響をするものなのだろう。厳しくも綺麗でそして接する態度も平等だから、そういった点において自然には不満がない。弱いものは死ぬということも。だから綺麗なのかもしれない。風景にもそういった部分が垣間見えるから好きなのだろうか、そこに立ち続ける木々達も私と比べたらとても強く、それを綺麗だと認識してしまう。
こんな思想も含めて様々なことに薄く興味があるが、興味の近い人と様々な共有を好むし、そうしたい。もう無理はいい、誰の顔色を見ているのだろうか、なんとなくここ半年の間、無意識に隠してきたことを自認できるようになった。いい歳をして稚拙だと思うが仕方がない。恥ずかしいとかどうでもいい。経験しておかねばならない世代に体験する機会がなかったんだろうと考えている。
ともかく、誰のためでもなく、時々このように自分のために書き残しておきたいから綴っておく。今日も巨大な認知の塊で作られた世界の片隅で、自分の認知がつくる世界の展開をそっと続けておこう。
私がみる空は、だれと同じものにみえているのだろうか。