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極まりし変人爆誕

理屈は自分でもよくわからないが、なんとなく「これでいいのかもしれないな」と自分自身に少しだけ納得をしてしまった。何を言っているのかわからないと思うが、自分でも説明は難しい。何があったわけでもない、恐らくは過去の様々な積み重ねが唐突なこの結論に至ったという説明が最もしっくりと来るだろう。

嫌なものは嫌だし、好きなことはやっぱり好きなままなのである。当然のような話なのだが、案外自分はこれを認めることが出来ていなかったのだなと先程気がついた。

私はどこか愚鈍めいた性格なのか、他人から言われたことをとりあえず「飲み込んでみる」ようなところがある。口や食道が焼けただれる出来事もあったのでそれはあまり良くはなかった。見方を変えれば素直とかいう日本語で表現されることもあったかもしれない。「嫌なものは嫌」という態度は我儘で協調性がない意識ではないかという刷り込みがなかったわけではないが、様々なタイプの人間を知るにつれてその主張はある程度しなければいけないことを学習したわけだ。そもそも、私自体に日本社会でウケが良いような協調性という仕様は実装されていなかったのだから無理をしていた。

未実装なら実装をしたらいい、世間という荒波をうまく渡り、バカを見ないように老後を想定して準備を怠ることのないように賢く生きるんだ、そのためにいつまでに何かを成し遂げ、あれやこれや…考えないわけではなかった。

嫌だ。無理無理無理かたつむり。つまらなすぎの限界突破でしょ。

もうバカを見すぎたからかもしれないが、私、やっぱりあんまり興味ないなって。興味なさすぎてどんなにバカと言われてもそのために生きる気はしないし同調ができない。もう心の底からつまんなすぎて無理。つまんないから、明日いきなりバラモスとか倒しに行くレベル。子供の頃から我慢しすぎていたからもういいでしょう。たまにはぶっ飛ばしに行ってもいいはず。

世間からかっこ悪くない、後ろ指をさされないような「どうみえるか」に重点を置いた生き方をしていきたいという無意識の中で勝手に溺れている自覚はないのかな、そんな人をたくさん見てしまったのかもしれない。唾の掛け合いをしながら自分の存在感を保持する方法しかない人も「飽き飽き」だ。それが好きな生き方なのかもしれないけれども、私は見飽きた。超絶つまらんのだ。

最近は、客観的には孤独だろうとなんだろうと愚直に「好き」を突き詰めすぎて極まっている人々を見つめている。これは私の好きなことのひとつだ。

どうせお行儀よく他の人のように、賢く生きることができないんだから私も極まってみたい。それは素直にそう思える人を見たからかもしれない。

今まで立場を利用して理不尽な要求をしてきた人々に縁のある場所達、人については書くことを憚られる内容(因果応報みたいなこと)を含め、場所については被害者を出さずに悉く物理的に燃えているというオカルトな状況を見ると、申し訳ない気持ちもするが「わかってくれる何かがこの世界にはまだあるんだな」と思ったりもして少しだけ心強い。人間の味方は少ないが謎の勢力がガチで味方なのだろうか。まあ、科学的根拠は一切出そうにないので、都合よくそういうことにしておいた。

そんなわけで、自分は現世をもう少し楽しんでもいいのかもしれない。そんなことを冬嵐の日に思うのである。