喜んでもらえること
昨晩、私生活が混乱している友人と久しくボイスチャットをした際に「そういえば君は絵を描くと言ってばかりだが、その絵を見たことが無いぞ」という指摘を受けた。耳が痛いどころか、みぞおちにパンチが入ったような気がしたがそれもそうである。それにあまり機会が無かったので、先月から描き始めた絵も見せていなかった。
過去の自分であればそれこそ商業に出すことができない絵など他人に見せることは無理だと考えていたが、今はあっさりと差し出すようになったと思う。近い理由で文章も同じように、特に意味もなさそうな内容であっても気楽に書きまくり(誤字やしつこさはなかなか直らなくてよく赤面しているが)こうして公開を繰り返している。
絵を見た友人は感嘆の声をあげてスマホに保存すると言う。彼の好みにあったようでそれは良かったと素直に思えた。私はとてもネガティブな自己評価が多く、例えば称賛の言葉もお世辞や社交辞令ではないかと受け取ってしまう癖がある。ほんとうに育ちが悪い部分だと呆れるのだが、今は褒められたり見てもらえることを素直に受け止めて、そして大変感謝をしている。
評価数は最も大切なことではないと私が言ったところで説得力もないし、むしろたくさんの評価は信頼にもつながることなので大変重要だ。自分もレビューなどは数もしっかりと考慮して読んでいる。しかし一人の称賛は百人の称賛よりも価値がないのかといえば、やはりどうもそれは違う。
そんなことをゆっくり考えていたところ、下記の記事が目にとまる。正確にいうと“厨二”の心を忘れずにという強いメッセージに惹かれてしまったのだ。私の妄想は常に厨二であるから、これは良い自己肯定記事ッ!と読み始める。”厨二”はともかくとして、内容は説明不要の漫画家、原哲夫さんのアート製作秘話についての対談であるが、これが大変良かった。
TwitterやNoteでも、そして昨晩の友人が褒めてくれたことを思い出して、全くその通りだなと理屈と良い体験が結びついた。自分のつくったものを世界に一人でも喜んだり、良いと言ってくれる人がいるんだからそれはとても嬉しい。そしてそれを自分自身で「たいしたことはない、良くないよ」と卑下してしまうことは評価してくれた人をも貶める。
だからありがとう、昨晩もそう素直に伝えた。