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何もない空というもの

露天風呂にいきたい。温かい湯の中から空を見上げたいのである。何もない空を見ながら「今日の空も何もないな」とそのまま見たことだけを受け止める時間が、個人的に必要なのだ。私の言葉で端的に言えば「平和だなあといいながらぼんやりしたい」とも言える。

ニュースフィードにも「戦争」という二文字が浮かんでは消えていく。記事には一般市民が軍人から武器の取り扱いに関するレクチャーを受けていたり、または外見的には普通の中年女性が銃火器を構えていたり、そんな写真が何枚かあって一般的な日本人にはない国家という意識を考えたりしていた。このような報道も対外戦術の一つであってもしかしたら事実とは異なっているかもしれないが、家族や子供を守るためだと穏やかな表情で、サイレンサーが装着されたスナイパーライフルを見せた母親が「銃も安くないのですよ」と説明する姿は印象に残った。

何もない青い空は「何もない」のではなく領空権などのルールやそれを維持する抑止力が「ある」ことによって「何もない」青い空が実現している。それも自分の力ではない。誰かの手によって維持されている「何もない」日を貰い、私は通勤や仕事をしては「飽きた、労働はそろそろ罪にしてほしい」等と勝手なことを言っているのだから、暢気な日本人のひとりとしてカウントされねばならないだろう。限られた収入から安価とはいえない銃を買い、最も身近な家族の「何もない」日常を自分の手で守ろうとしている母親から見たら、私は随分と「幼稚」なのである。スナイパーライフル一本でプロの部隊と戦うことが現実的かどうかではない、このような民の覚悟と各の動機や行動が国家を形成していくのだろう。

そこに「覚悟の美しさ」をみた。自らの手でどうなるのか知りながらも、トリガーや操縦桿を握る覚悟。自分と同じように相手にも守るべきものがあることを承知しつつ、だ。「他人より与えられた日常」において人は愚か故に武器を持つという主張もあるが、その目的や存在意義をつくるのもまた人だという認識が欠けたときに、ただ愚かになる。そしてこれは言論に対しても当てはまることだ。

念のために付け加えておくが私は戦闘狂ではない。中東で起きた紛争によって足に大けがをした四、五歳の幼児が「こんな世界に神様なんかいるもんか!」と言いながら号泣している写真にあったように、最も理不尽な目にあうのは弱い立場の人であり、まずは子供からだ。戦争をするべきであるなどいえるはずがない。

私は不幸や苦労というものが、他人との比較で度合いの順列が付くなどとは思わない。それは個人によって大きく前提が異なるから比較は難しいという理由からである。そうは思っていても、生まれた瞬間にミサイルで吹き飛ばされるような世界には生まれなかった自分は、恐らく運が良かった。

戦争に限った話ではなく、このような理不尽を軽減するためには運が良かった人達の力が必要だろう。なにも世界全体を憂いて救う事を考えろという話ではないし、それは神さまの領域だから人間一人が抱えるものではない。ただ「頼るものすら信じられぬ理不尽」を認知し、「無関係且つ得をしないから」とそれらを軽減しようと考える人が少なくなればいつかは「何もない空」も保たれなくなり、天真爛漫な人の笑顔というものも少なくなっていくだろうと推測する。

自分の文章では伝わらずにそれがなんだ、といわれるかもしれない。しかしまずはいわねばなるまい。孤軍奮闘であろうと、これが自分が出来る精一杯の「逆らい」の一つなのである。