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超物憂いと桜と

今日ばかりは物憂い雨の日と感じる。そして水曜日以降、急に寒くなった。窓ガラスや家が破壊された地域を思う。こんな時に限って雪が降りそうな位に寒くなることはないだろうにと少し恨めしい。

自由な選択肢がたくさんある人からすると「そんな危険な土地に住み続ける人がわるい」そうだが、毎年のように起きる地震で家や家具、転倒した墓を毎回のように修繕をする人達がわるい(自己責任)とか、愚かだとは私には思えなかった。単純に大切なものがあって、そしてやさしい人がたくさんいるんだろうと思うだけだ。

そんなことが起きた翌日も、とある知人は壁が割れた家から仕事へ出かけた。破断したでこぼこの道を運転して商品棚がメチャクチャになった職場へ行き、同じくライフラインが一部不通になって困っている人達になんとか出せる商品を提供していた。

もうひとりの知人も、年度末の忙しさに忙殺されながら住まいも海岸に近くということもあり実に不安な夜を過ごしたと思う。十分な休息もとらずに出勤したのだろう。この人はいつも我慢と無茶ばかりするからもっと仕事をサボるべきである。

嫌な事実に囚われるなと言われても、目の前にある道は割れているし家の中はめちゃくちゃに壊れている。仕事は待ってくれない。様々なことからどう立て直そうかと思案している人に「それだけが人生じゃあない」なんて言うことは随分と酷な話だ。窓や壁がない家はまず、ただただ寒いのだから。

命が大事なのだから、移住をすることで解決になるといった正論も間違ってはいないけれど、その人自身の構成要素としてその土地や国が内在されているから移住を選択をしない人々もいるのだろう。自分はどちらかというと経済的理由で今の土地にとどまっているだけなので、もしかしたらその心情を正しくは理解していないかもしれないが、世界には命をかけて祖国を守る人もたくさんいるのだからそうなのだろうと理解をする。

去年も地震により転びに転んで修繕をしたばかりという話をしながら、明らかに人力では移動が厳しい状態で散乱した墓石を眺める人をみる。やっぱり変わらず、その場所で修繕をするらしい。自分の中にもいるコスパ脳が「移築のほうが総合的にコスト減になる」などとつまらないことを言っている。

重要視する事柄が違えば選択の結果も当然かわる。結果だけをみる場合、皆それぞれ想像する前提条件が違うことがあるから、それらの評価もかわる。当たり前のことなのだけど、そんなふうに考えている人は実は少ないようだ。確かにみるもの全てにおいて丁寧に条件を想定するには時間がなさ過ぎるから当然なのだろうけど、自分は時折必要とする丁寧な想定すらも無駄だと放棄してしまうコスパ狂とはやはり相容れないかもしれない。

モヤモヤとそんなことを考えながらも気が散り始めた自分は、外にある桜が気になった。どこかの刑事ドラマのようにブラインドのスラットに指を差し入れてくいっと開きながら見てみたのだが、よく見えない。全てがわかったような顔をするものだからよく見えると思っていたが全然みえないじゃあないか。結局ブラインドを上げることになり作業コスパは最悪であった。

独り寂しいコントのあとに見えた桜の枝には、蕾の膨らみがあった。
そのうちきっと「また今年も桜が咲きましたね」と言うのだろう。

同じ場所、同じ時期に変わらずに行われるサイクルへ人は時々いろいろな記憶を乗せる。木々や土地はたくさんの人の記憶をいつの間にか背負い込む。怪談も土地の言い伝えも愛着のようなものもそうやって培われているのだとしたら納得がゆく。一種の外部記憶媒体として機能し、一定の人々を構成する重要な要素へとなる。そしてそこに映るは現世のものだけではないだろう。

なにより、己が理解ができないからといって他人が大切にしているものを無下にしないようにしたいものだ。いろいろな情勢をみるたびに、これだけは自分にとって失ってはいけないことのひとつと肝に銘じる日々である。

そしてまた、各地で桜が咲く。今年はどんな記憶を乗せて散ってゆくのだろうか。とりあえず、またフジファブリックの「桜の季節」を聴きながら開花を待つことにした。