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「みんな違っていい」ことの結末は

UNESCO憲章にある一文を大変気に入っている家族がいて、有事の際になると「人の心の中に平和の砦を」と話をはじめるのだが、去年からクーデターや紛争が続いているからその回数も増えていた。

お決まりセリフが来たなと思いつつ、それぞれが想像している「平和」を築こうとしたならば、その一文を文字通り受けとる素直な人ほどに強固な態度になりがちではないかと考えていた。そしていつから「平和」自体が、全ての人にとって共通の条件のもとに実現されるものだと錯覚されるようになったのか。だから争わねばならなくなる、そんなことを思った。

超軍事大国が発表するようなわかりやすい報道も作戦のひとつであろうし(それにしても手際の良さや推測される策に舌を巻きつつも)真偽を確認する術などない私は全てにおいて判断材料が欠けている。陰謀論者のように他人を操作するための虚偽だというわけではないが、鵜呑みにできるほど純粋でもなく、そして一方的に誰かを支持することも、批判することもまたできない。ただ、各々の悲しく強固な覚悟に祈るだけだ。

換気のために窓をあけると今日も雪曇りの空がみえた。その下を定刻通り、暢気に新幹線が走りぬけていく。どこかのいんたーねっつ上では誰が守ってくれるのか、憲法がどうとか、相変わらず自分以外の誰かを頼ろうとしたり、自分以外の責任を探ったりしている。いつだって「自分以外の誰か」が行動をすることが当たり前で、自分は一方的に享受することが当然のような、そんな暗黙の前提がある「名議論めいたもの」にあふれていた。

その様子を観察しながら三島由紀夫は死なずによかったんじゃあないか、そんなことを考え始めてしまい、自分の内に同居するラスボス属性(世を憂う気持ちからの滅べ衝動ともいう)がふつふつと湧き上がってきたが、まあまあと自分自身で宥めながらも、如何ともしがたい事柄にいつものように嘆息する。

多様性を認めるということは、個人単位での個性やLGBTQだけのことだけではない。これは国家単位、民族、人種、宗教、すべてにおいて適用されることになるが(少なくとも「平等」主張をするのならそれが筋だろう)このように「みんな違ってみんないい」といいながら、多様性の適用範囲を広げてみると途端に認めあえぬといいだす。当事者達は「みんな違ってみんないい」のだから、認められるべき存在として強固で揺るぎない自信をもって主張を行うことは自然なことのように思う。当然これらにコンフリクトが起きることも予想できる。

それでもとても当然のように、多様性を認めることは大事だ、認めない人は視野が狭いと声高にいう人はたくさんいるようで、それにはいつも一抹の不安を覚えてしまうのだ。それが極まったときに起きることを想像したことがあるのだろうかと。

長々と考えていたら随分と頬が冷えきっていたことに気がつき、窓を閉めた。今日は陽も差すことなく、曇天はそのまま重そうに漂っている。