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時々読み返したくなる記事、疲れた時に是非。
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2023年1月の記事一覧

他人の眼のなかの塵

 先日、不幸を招く青ざめた鳥のSNSで、随分と適当な発言をみて閉口してしまった。当然、キリスト教については何もしらない人の発言だから目くじらを立てることが可笑しい。とはいえ、やはり反応してしまう。上掲イエスの言葉を思い出し、心に反省が去来した。  陰謀論やスピ系、または床屋居酒屋井戸端で、ひとは語る。「本当のイエスは~だった」と。この手の発言は基本的に失禁と同様であり、要介護でないかぎり自分で始末をつけてもらわねばならない。「イエスは宗教に利用された」「聖書の~は、要するに

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読んでいて苛々するような本を、それでも最後まで読む意義について

 そういえば、先日のツイキャスでは「主張のスタイルや考え方の合わない本を、それでも最後まで読む」という態度についても話題になったが、これは実際にも大切なことであると思う。

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知らず覚えずして苦悩を受く

 先週末のツイキャスでは複数のテーマについて話をするつもりであったところ、(いつものことではあるが)ついつい説明が長くなり、最初の話だけで時間を使いきってしまう仕儀となった。ただ、そうした複数のテーマを通じて視聴者の方々にお伝えしたかったことは結局のところ単純な1つのことであって、それは、「思想や言説の力というものの実際的な強烈さ」ということである。 (※録画視聴パスは、1月2日のエントリより取得できます。)

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面白さと気持ち悪さのバランス

 昨日のエントリのみならず、とりわけ今月の本noteの記事の多くは、字数だけでなく内容の面でもかなり「読者に負担をかける」ものになっているのではないかと心配していたところ、そうしたエントリを思いのほか支持してくださる方々もいたりして、たいへん有り難いことだと感じている。ただ、このあたりの「バランス調整」は相当に繊細な性質のものでもあるから、引き続き読者の方々の反応を見つつ、試行錯誤してゆく必要があるだろうとも思うところだ。

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規範の単一化を求める実に「宗教的」な欲望について

 昨日のエントリでは、近時の言論空間は「カードバトル(以下)化」しているように見えるところ、その背景で進行しているのは、実は「規範の(無自覚な)単一化」という事態ではなかろうか、という話をした。それを受けて本稿では、この「規範の(無自覚な)単一化」という事態の問題点について、とくに宗教との関係に着目しつつ、さらに詳論してみることにする。

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もはや言論空間は「カードバトル以下」になりつつある

 一部SNS等に限った話ではなく、最近の言論空間一般が「カードバトル」化しているのではないかという所感を有している人は、決して少なくないのではないかと思う。  とはいえ、この「カードバトル」という比喩によって直観的に伝達・理解されているところの事態の内実というのが、一体いかなるものであるのかということは、必ずしも明らかではなさそうだ。これについては様々な意見があり得るだろうが、私自身は「規範の(無自覚な)単一化」ということが、少なくとも一つの有力な説明になるであろうと考えて

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いちからせつめいしないとだめ

 先日のキャスで現代日本の諸問題とその根源について論じていたら、徐々にヒートアップしてしまい、久しぶりに(?)お気持ちを爆発させてしまった。 (※録画視聴パスは、1月2日のエントリより取得できます。)

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当たり前のように思える話こそ、順を追って丁寧に考えよう

 先日のエントリで、「人格」や「尊厳」という概念(言葉)の基本的な意義について解説したが、これがわかっていることで、クリアな判断がしやすくなる問題も様々にある。そのうちの1つが、たとえば子供の「自由」や「自律」について、どのように考えるべきかという問題だ。

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教理的に正しいとは必ずしもいえない対応が、宗教を支える機序について

 楽しく進行中の『仏教と儒教』読書会であるが、そこで「僧侶は世俗的問題に関する相談について、どのように対応すべきか」という話題が出た。

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「人格」や「尊厳」とは、そもそも一体なんだったのか

 昨日のエントリでは哲学教育の意義について述べたけれども、それでもやはり、「そんなことをやって何のメリットがあるのかわからん」と感じた人はいるかもしれない。そこで今回は、現代日本社会において私たちが日常的に使用している「人格」及び「尊厳」という言葉(概念)に着目して、その哲学的背景について略述してみることにより、こうした疑問に対する別の角度からの回答を試みてみることにしたい。

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「お行儀のよい被治者」の育成システム

 今月最初のエントリで「自律(Autonomie)」について考えたい、といったことを書いたけれども、そもそもこの概念自体が高度に哲学的なものなので、それについて語るとなると、ウェブ記事の範囲では、なかなか難しいということになる。日本の人たちは多くの場合において、このような哲学的概念(術語)の扱い方について十分な教育を受けてはいないし、ゆえに基礎的な知識や理解も、残念ながら不足しているからだ。

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緊張と弛緩のバランス

 なにしろ勉強時間が足りない。いや、一般の勤め人の方々に比べれば、かなり勉強時間はとれているほうであるとは思うのだが、とはいえ「勉強しなければならないこと」は、勉強すればするほど増える傾向があるので、1冊の本を読み終えたら、読書リストが新たに3冊以上は積み上がるというのが私にとっての常態だから、結局はいつも「足りない」という焦燥感ばかりに迫られ続けることになるわけだ。

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思想や言説の力をナメたことによって、むしろその奴隷と化す人たちのこと

 昨日のエントリでは言葉の定義を明確にすることの重要性について述べたけれども、そのようにしてクリアなものとされた術語や概念を積み重ねて、説得力のある思想を語ることは当然ながらそれ以上に重要である。ただ、本邦では残念ながら、言葉や思想が現実に有する力のヤバさについては、あまり敏感でない人が多いようだ。

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言葉の定義の確認は、知識を体系化するためにこそ実に有用である

 なんとなく身体がダルかったので、「時間がない」という言い訳を振りきってジョギングに出た。おかげで今日はなんだか気持ちまで軽くなっているようだ。食事や睡眠のみならず、やはり運動をすることも、少なくとも私にとっては、何よりも優先して行うべきことだなあと再確認させられた次第である。  ところで、運動は生活というか、健康維持のために優先されていることだが、知的な営みに関して私が優先して行っていることといえば、何よりも言葉の定義の確認である。これを軽視する人は知識人と称される方々の

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