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あれから28年 一日中 火の海をみつめたあの日の話。

こちらは阪神淡路大震災の記事となります

最初に、描写等でしんどいなって思う方も
いらっしゃるかもしれないので
ご無理をなさらないようご注意ください

早朝のズンという揺れ

高知県に住んでいるワタシは
比較的、地震についての知識を詰め込まれた

南海トラフの地震域であることが
小さい頃から訓練が生活の中に当たり前にあった

しかし
誰も早朝に起こるとか考えも及ばない

それを目の当たりにしたのが
阪神淡路大震災だった

ガシャンと何かが壊れる音から
ズンと沈む揺れで目が覚めた

揺れに耐えていると
目の前にあったブラウン管テレビが
頭の上に落ちてきて額に傷ができた

支えのワゴンが揺れで曲がって
ベッド側に寄りかかりながら落ちたので
切り傷程度だったが

ブラウン管のテレビは
殺傷能力高いんよ笑
(笑い事ではなかったw)

火事から何もなくなり
新しい家に入って半年目くらい

特に家具を新調したりすることもなく
使わなくなったベッドやテレビをもらい
キッチンワゴンの上にテレビを置いていたから
ブラウン管テレビが降ってくるという
奇が起こる

オカンと二人暮らし中
自然災害が大嫌いな母の第一声は

「ゆきさん!逃げるぞね!」
と枕を片手にマンションから飛び出した

「待って!」
頭の血を拭きながら
オカンが外に飛び出していくのを引き止めた

「テレビで確認して!」
と大きな声を出した時には
まだ微かに揺れていた
長かった

NHKで地震速報が流れ
神戸で震度6

ただごとではない情報が
一気に入ってくる

あまりにも日常にないことで
ポカンとしたまま
次々と流れてくる情報を
心が落ち着くまで
ずっと眺めていた

当時まだ携帯電話がなかった

ましてやこんな朝早く
無事確認など出来ない

寒い
外は北風が吹く1月だ
気持ちが落ち着いてきた頃には
朝焼けが綺麗だった

母の実家は大阪府寝屋川市
そして身内は吹田市や八尾市

友達は大学で神戸三宮に居て
芦屋市に就職した仲良しのことがよぎる

連絡は取れない

友達と連絡が取れない
親戚の様子が分からない

この記憶が
今思い出せばいちばんしんどかった

高知で起こったわけではない大災害
ゆえ 仕事に向かう

当時県の職員だったワタシ
日頃より少し早く出勤したが
もうすでに上司(いわゆる管理職)は
色々な連絡等に追われていた

いつもとは違う光景はもう一つ
NHKでの災害情報がずっと放送されていたこと

ヘリで長田上空を映している

だんだんと火の勢いは大きくなり
街は火に飲み込まれていく

こんな恐怖な映像が
一日中テレビから流れた

友達もこの街のどこかに居るかもしれない
つい不安になる

しかし関係各所からの
問い合わせの電話が鳴り止まない

取り継ぎながら
無造作に
映像を見つめてしまう

こんなことは
生まれて初めての出来事だった

震源地からは離れたこんな田舎でも
心の被害は大きかった

まだ災害ダイヤルもなかった

携帯もなかった

メールもISDNジコジコジコ
一般的にはみんなが使える感じもなく

その後一斉にいろんなサービスが

たぶんみんな
電話も繋がらないような
あんな世界が辛かったと思う

きっとアナログ世代にしかわからない不安

今じゃ考えられない

親戚の、友人の、
便りがなくなる怖さは
どんなにIT化されても
同じだということを
3・11でまた知ることになる

スマホも使われるようになり
TwitterなどのSNSや
いろんな媒体で情報がもらえた
便利になった
それでも
安否は確認するのに時間がかかった

頼りになるのはテレビだ
だからこそ
仕事中にも関わらず
真っ赤に燃える街並みを
悔しい気持ちで
一日中眺めていた

28年前の話

その後無事を確認できた親戚も
当時のことを嘆きながらいう

心配されていることはわかっても
電話が繋がらなかった
電気もなかった
水も出ない
暗い中で不安が募ったと

大きな被害はなかったものの
ひとと交流が出来ない不安は
しばらく続いたと

この経験を
28年前を
若い子は知らない

5時46分の時報とともに
黙祷をした

きっとこれからも
思い出すであろう
思い出して風化しないように
伝えていける何かがあるといい

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